徳島県誌略に記されし阿波國を統率した者
古代、現在の徳島県の北の地域は粟の生産地により粟国、南の地域は長国と呼ばれた。のちに律令制において長国造の領域を含め令制国としての粟国が成立。和銅6年(713年)、元明天皇による好字令で、地名を二字で表記するため「粟」は「阿波」に変更された。皇政の始より鎌倉幕府創立の時に及ぶまで、凡千八百五十年余年間阿波国の統率に關繫ある者を擧ぐれば槪ね次の如し。
どうも。awa-otokoです。いろいろ忙しくてなかなかブログが作れません… 。ぽつぽつと下書きを打ったりはしていたのですが、とっておきの大ネタにはとりかかれずじまいナノデス…。
という訳で、今回は「徳島県誌略」に記載されている阿波国経営に加わった人物を引用しただけの構成になっています。情報は寄せ集めですが各人の地位や経歴を見たら唸るものがあります。こちら貴人達の情報をいろいろ考察する種として使用して頂ければありがたいですね。それではどうぞ。
息長田別命
日本武尊ノ王ニシテ成務天皇ノ時来リテ當國ヲ治シ子孫世世之ニ居ル阿波君ト称セリ
日本武尊の本陵(白鳥神社) - awa-otoko’s blog
伊勢王
天武天皇十二年天下ヲ巡行シテ諸國ノ境界ヲ分限ス
路跡見
直廣参ヲ以テ同十四年國郡及ビ百姓ノ消息ヲ巡察ス
大伴道足
巨勢島村
同十六年南海道使タリ
紀麻呂
阿部廣人
吾は今夜、八風を起こして海の水を吹き、波に乗りて東にゆく、これすなわち我が去る由なり。 - awa-otoko’s blog
高向家主
石上家成
多治比三上
小野馬養
高安王
伊豫守従五位上タリ養老三年始テ按察使ヲ置ク王阿波、讃岐、土佐ノ三國ヲ管シ其ノ所管ノ國司若シ非違及ビ百姓ヲ㑴淫スルモノアラバ則チ親シク自カラ巡省シ状ヲ量リテ黜陟シ其ノ徒罪以下ハ慚決シ流罪以上ハ状ヲ録シテ奏上ス若シ馨教脩潔ニシテ都内粛清ナレバ具サニ善ノ最ナルモノヲ記シテ言上スト云云
多治比木人
百済敬福
百済義慈王ノ玄孫ナリ人ト為リ慈辯二シテ従政ノ才アリ 聖武天皇特ニ之ヲ寵過スト蓋シ資ヲ傾ケテ貧家ヲ賑シ徐財ナシトゾ天平寳字五年南海道節度使タリ従五位上藤原田麻呂従五位下小野石根等副タリ判官四人紀伊、阿波、讃岐、伊豫、土佐、播磨、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、等十二國船一百二十一隻兵士一萬二千五百人子弟六十三人水手四千九百二十人ヲ検定ス天平勝寳四年従三位ニ叙ス時ニ陸奥守タリ黄金九百両ヲ献シ因テ従五位上ヨリ進ミタリト云フ
吉備泉
千波足尼
高皇産霊九世ノ孫 軽島豊明天皇阿波國造ニ拝ス
豊穂ハ豊茂理亦ハ豊成ナドノコトニヤ - awa-otoko’s blog
大伴大瀧
韓背足尼
観松色止命九世ノ孫 志賀高穴穂天皇長國造ニ拝ス
勝占神社は事代主神社 "祭神も事代主神 一柱だ!!" - awa-otoko’s blog
阿閉市命
阿閉臣祖屋主思命三世ノ孫 志賀高穴穂天皇國造ニ拝ス
三日月と女(大宜都比売命の神裔) - awa-otoko’s blog
粟豊穂
参議巨勢麻呂ノ子ニシテ阿波守タリ 蓋シ天平寶字中ノ人
葛井根王
豊野篠原共ニ傳記未詳
菅原清公
大同年間ノ人 遣唐判官兼近江槽称ヲ以テ唐ニ至リ大使ト興二徳宗ニ見エ弘仁ノ初左京亮ニ補セラレ大學主殿頭左右少𦎾ヲ歴テ式部少輔ニ遍リ阿波守ヲ兼ス後従三位ニ叙セラル寶ニ菅原道真ノ祖父ナリ
天長中陸奥按察使記事タリ 承和中従五位下ニ進ミ阿波守ニ任ゼラル 池溝ヲ堀リ陸堤ヲ造リテ灌流ニ備フ治績大ニ顕ハル廉清寡言又至孝ナリシ
善道真貞
右京ノ人 少壮既ニ學名ヲ馳ス 弘仁中博士トナリ等テ越前大橡相模櫂介ヲ懸テ天長中大學助陰陽頭トナリ従五位下ニ進ム表請シテ善道宿禰ノ姓ヲ賜ヒ阿波守ニ任ゼラル然レドモ合義解ノ撰ニ興レルヲ以テ任ニ赴カス其ノ學トスル所ハ文字ノ末ニ拘ラズ俗通ヲ旨トス大ニ大學ニ重視セラル
長峰高名
亦賜冠ニシテ學名ヲ負フ 年二十一ニシテ文章生ニ補セラレ式部民部両省ノ少録少内記タリ 家貧ナルヲ以テ外任ヲ請ヒ天長中安房橡二任ゼラル後正六位上ヨリ外従五位下ニ進ミ大膳亮美作櫂介ヲ兼ス 藤原常嗣 小野篁ノ遣唐使タリシ時常嗣ニ◼️シテ唐ニ入ル 篁ハ病ト称シテ行カザリシヲ以テ高名唐ニ至リテ殿ニ上ルヲ得タリ 帰リテ伊勢介ニ除セラレ正五位下ニ進ミ嵯峨院別當トナリ山城、阿波ノ守ヲ歴テ後數官ヲ累ネ天安元年官ニ卒ス 子孫ヲ戒メテ簿葬セシムト
嵯峨天皇ノ皇子ニシテ明悟學才アリ 天長九年大學頭タリ 承和中加賀、近江、播磨ノ守ヲ兼ネ左京太夫ニ任シ刑部卿ニ還リ越中守ヲ兼ス 嘉祥元年阿波守ニ還リ同二年参議ニ拝ス帝崩スルニ及ビ衰悼遂ニ僧トナリ素然ト號シ横川ニ居ル横川宰相入道ト称ス
藤原國風
天慶中讃岐介タリ 或ハ又阿波守タリトモ云フ 盖シ相兼ネタルニヤ 是レヨリ先キ承平中南海道群盗蜂起シテ沿海ノ郡邑ヲ妙略ス時二伊豫椽純友異謀ヲ懐ク延議紀淑人ヲ伊豫守トシテ以テ追補ノ事ヲ行ハシム 是ノ時ニ當リテ平将門常陸、下総ノ間ニ起リテ僣疑自居ル純友遥カニ之ニ応ジ日振島ニ據リ黨興ヲシテ京師ヲ優サシム時ニ國風讃岐ニ在リ之ト戦ヒ敗レテ阿波ニ走リ又淡路二奔ル 純友遂ニ伊豫、讃岐ヲ略シテ山陽道ニ進ム 後官軍ノ為メニ捕蕩セラレ國風亦讃岐二還ルコトヲ得タリ
桜間文治行直
國風ノ子ニシテ後代桂浦城主櫻間成道ノ先ナリト或ハ曰ク行直ハ阿波ノ豪族ニシテ純友ノ亂ニ國風ヲ援ケテ讃岐二戦ヒ敗レテ山中二潜ミシカ又阿波ノ豪族 椙尾右馬介資宗ノ一千余騎ヲ率ヒテ國風ノ軍ニ加ハルニ會シ供ニ進ミテ敵軍ヲ破ルヲ得タルトナリ
佐(々)木経高
季義ノ子ナリ 先世近江佐々木ノ庄ニ居ル乃チ氏トス 秀義平氏ノ為メ遂ハレテ相州波多野ニ居ル経高乃チ澁谷重國ノ女ヲ娶ル源頼朝兵ヲ挙グルニ及ビ私ノ為ニ義ヲ◼️サス 兄定綱ト興ニ伊豆ノ目代平兼隆ヲ攻メ其當堤信遠ヲ討チ遂ニ之ヲ斬ル 此ノ戦ハ頼朝挙兵ノ最先駆ナリト平氏亡ルニ及ビ中務丞ニ補サレ淡路、阿波、土佐ノ守護トナリ京師ヲ護ル正治ニ年大和ノ賊京師ヲ犯サムトスト聞キ兵ヲ其ノ領國ニ徹ス 後鳥羽上皇其ノ壇ニ兵ヲ動シテ輩殺ヲ擾シ且國司ヲ蔑スルヲ憤リ幕府ヲシテ統治セシム為ニ職ヲ罷メ邑ヲ沒セラル祝髪シテ経蓮ト稱ス明年子高重寃ヲ幕府ニ訴フ頼家覆議セシメテ罪ヲ宥シ食邑一所ヲ復セラル(略)
信濃守遠光ノ第二子ナリ(阿波古城諸将記ニ云ク小笠原左京大夫信濃守長時(又云時氏)正四位下承元元年丁卯為阿波國守護職任阿波守長時子長清子弾正少弼侍従長義長義子長經長房干時文永丁卯四年云々蓋シ説アルニ似タリ)甲斐小笠原ニ生ル 加賀見二郎ト稱ス 源頼朝ノ起ルニ及ビテ甲斐源氏駿河ニ至リ黄瀬川ニ合ス是ヨリ先キ長清兄秋山光朝ト平ノ知盛ニ属シテ京師ニ在リ 母ノ病ヲ省スルニ託シ堅ク歸ヲ請ヒ甲斐ニ至リテ遂ニ頼朝ニ謁ス承久ノ役武田信光ト共ニ将トシテ東山道ニ出テ撃テ官軍ヲ走ラス功ヲ以テ阿波守護トナル 仁寿三年卒ス 年八十一長清騎射ニ精シ後世相傳ヘテ以テ矜式ト為ス子長経、時長、行長、長経弥太郎ト称ス 頼家ニ親昵セラレ常ニ左右ニ侍ス 又金能員ト友トシ善シ能員敗ル、二及ビテ連居坐シ幽セラル子長房阿波守護タリ子孫阿波ニ在リ
細川頼春
刑部太夫ト称ス 延元二年細川定禅ノ後ヲ継ギ足利尊氏ニ従ヒ四國官領ニ補セラル 阿州板東郡勝瑞ニ屋形ヲ構ヘテ居城トス 阿波ノ守護小笠原長房並、坂西、板東、海部、秋月等ノ諸将皆細川家ノ幕下ニ属ス
細川持隆
讃岐守成之ノ玄孫ニシテ頼春九代ノ孫ナリ 讃岐守ト称シ亦阿波國勝瑞ニ居リ阿波屋形ト號セリ 三好元長四子アリ 長ヲ長慶トシテ次ヲ義賢トス 父ノ意ヲ受ケ板東郡住吉神社ノ神主トナル 武ヲ講シ勢ヲ張ル 持隆之ヲ見テ意顧ル平カナラズ 天文中足利義冬當國ニ来リ潜ム 持隆一日三好ノ族ニ語ルニ義冬ヲ助ケテ京師ニ入ラシメムトスト衆皆之ニ賛ス 独リ義賢之ヲ肯カズ持賢之ヲ含ミ遂二義賢ヲ殺サムト欲ス乃チ侍臣四宮興吉兵衛ヲシテ相撲ノ興ニ託シテ義賢ヲ招カシム 興吉兵衛謀ノ成ラザルヲ察シ却テ寶ヲ以テ義賢ニ語リ以テ自カラ安ニ居ル義賢乃チ却テ言ヲ巧ニシ人ヲシテ持隆ヲ郊外ニ道逢セシメ暴カニ企ミテ見性寺ニ自殺セシム 実ニ天文二十一年八月十九日ナリ 持隆ノ妻ハ大内義隆ノ妹ニシテ子ナシ 防州ニ帰リテ尼トナル 妾アリ 少将ト云フ 岡本美作ノ女ナリ 一子ヲ産ム後掃部頭真之ト云フ 義賢少将ヲ奪テ己ノ妻ト為シ三好長治十河存保等産メリ
細川眞之
持隆ノ妾ノ出ナリ 掃部頭ト称ス 天正十年十月八日異負父弟三好長治ト相悪シク党ニ仁宇谷ノ奥、蕨ヶ岡ニ於テ長治及異父弟十河存保ノ為メ追リ殺サル 頼春ヨリ真之ニ至ルマデ十一世ニシテ亡ブ
三好長基
初元長ト称ス 長輝ノ子ニシテ筑前守ト称セリ 永正十七年細川晴元ニ従ヒテ京師ヲ侵ス 将軍義植阿波ニ走ル屢界浦ニ戦フ諸将多ク晴元ニ諸ス覚ニ堺浦真奈美荘ニ拠リ祝髪シテ海雲ト號ス 細川之持ニ依リテ成ヲ求ムレドモ晴元聴カズ之持帰リテ天文元年三月阿波ニ帰ル 海雲素ヨリ功アリ故ニ巧ヲ恃ミテ嬌奢兵櫂ヲ私セムトス 晴元快々タリ 然レドモ宗族持隆ノ如キ者皆暗愚ニシテ勢暫ク衰頺シ三好氏ハ■ス隆盛トナレリ(略)
はい。なんとな〜くなんですが氏族の偏りがあるような、ないような、、、(意味深)。あと、拙ブログを読んで頂いている人なら諸々の繋がりが理解して頂けるのではないでしょうか。「徳島県誌略」に記載されていた古代より阿波国の経営に携わってきた偉人達の情報でしたが、ところどころにこれから調査する種が隠されていると思っています。
さて、年末ギリギリまで忙しい状況とawa-otokoのブログ作成意欲の低下(笑)もあり、年末年始に大ネタに取り掛かるかは今のところはわかりません。この状況が改善されるまではFacebookページでの投稿を増やして小ネタ投稿予定です。
それでは残り少ない2017年を有意義にお過ごし下さいませ〜。(^人^)