awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

神山の新田八幡神社は本来何であったのか⁈

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楠正成、新田義貞という名将が戦死した後、四国の南朝方勢力の挽回するために興国元年(一三四〇)四月三日、義貞の弟である脇屋義助が四国官軍総大将に任ぜられて伊予国川之江城に入城した。義貞の二男義宗、義助の子式部大輔義治とその弟義広なども川之江城に集結したがタイミング悪く、脇屋義助が同年五月十一日に病死。その機を逃さなかった阿波守護職 細川頼春は大軍を川之江城にさし向け義宗はじめ土肥、得能の南朝方武将を攻めて城を落とした。義宗は難を逃れて伊予国宇摩郡下川邑で蟄居した後、応永四年(一三九七)当地で没した。義宗の従弟 脇屋義治は阿波の三好郡井内谷に入り、祖谷山の豪族勢力を頼みして時機を待ち、やがて八石城を築いて立て籠もり、四〜五年戦って抵抗したが八石城も落ちた。義治は阿波郡日開谷に逃れ、のちに貞光山中に隠れて応永二六年(一四一九)七月十四日に没した。

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阿波には新田一族の痕跡が多く残されています。新田一族を祀る新田神社は全国で徳島県が一番多く、県内で四十七座が存在します。これらの新田神社は新田義貞、義顕、義興、義宗、脇屋義助、義広らが祀られているのであります。新田氏を祀る南朝方に依る者達も平家同様に忌部(麻植)を頼って阿波に入ってきたのでしょう。

と、不思議なのは名西郡神山町金泉に鎮座する新田八幡神社です。なぜ神山町に新田神社なのでしょうか?

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中世一時的に神山に入ってきた木屋平勢によって新田大明神が遷座されたとawa-otokoは推測しております。

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また、現在の「新田八幡神社」という社名からも新田大明神と八幡神が融合されたことが判断できるのではないでしょうか。

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通説で考えたらね。ここまでは。

で、さんざんこれまで新田氏絡みの展開で進めていきましたが、おもいっきり話題を逸らしてみたいと思います。awa-otokoは捻くれ者なので。(笑)

まぁ下の地図を見てみてくださいな。

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(それにしても地名が面白いなぁ。興味津々だわ。)

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今、新田八幡神社

昔、仁生田(にうた)神社

仁生田(にうた)が新田(にった)に転訛したのでしょうか。本来が仁生田(にうた)であったならば 丹生(にう)の意を含んでいると考えるのが当たり前でしょう。

辰砂 - Wikipedia

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阿波で丹生といえば若杉山遺跡が有名ですが、大宜都比売命の足取り、稲荷神発祥の地との繋がりを考えれば若杉山遺跡から神山 丹生山まで辰砂採取を移動していった形跡とリンクするのではないでしょうか。(考え過ぎ?)

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新田八幡神社が鎮座する神山町上分金泉では古来から財宝が眠っているという伝説がございます。この財宝が古来から発掘されていた辰砂(朱)のことであったならば…

思い出してみてください。上一宮大粟神社神殿の朱、新田八幡(仁生田)神社の屋根の色を。

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辰砂と稲荷、大宜都比売命。もう少しこの繋がりを深く調査してみたいと思います。(;´д`)汗汗汗…

(前半の新田氏は全然関係なくてすまんの。)