awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

勝占神社は事代主神社 "祭神も事代主神 一柱だ!!"

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勝占神社の祭神は事代主命也。
何と云うに神名式の文例にて明らかに知らるる也。

神名式ハ諸国奉たる其文例国々にて異なり、我阿波国の文例に三箇の例あり。

其郡々にて地理の順序を論せず大社より記したる例
板野郡大麻比古神社麻植郡忌部神社、名方郡天石門別八倉比賣神社と何れも其郡にて大社を第一に學びたり。

二座なるは必ず二座と記したる例
天村雲神伊自波夜比賣神社二座、倭大国魂神大国敷神社二座と記す也。

同郡に同神の鎮り坐すを並べ記したる例
名方郡天石門別八倉比賣神社、天石門別豊玉比賣神社を並べ記したる也。

阿波国三箇の例ある事を知る可し。

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此の例を以って考えるに勝占神社は小社なれど郡名と同しき社号は其地に深き由緒坐て郡中何れも小社の中の大社にて第一に記したる事と知られ且亦勝占という社号、事代主神 亦名 味鉏高彦根神に由緒あるは云も更なり。此社に並びて事代主神社を記しあるにて勝占神社は同神を祭れる㕝知られたり。

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冒頭から答えを書いてしまいましたw

昔の記録によると勝占神社の祭神は事代主命一柱のみなのだそうです。

現在伝わるのは主祭神大己貴命、配祀:事代主命、須勢理比賣命、少彦名命、玉櫛姫、大山祇命の五柱とされています。実をいうとawa-otokoも阿波古代史をかじりはじめた初期にはその六柱の祭神を鵜呑みにしておりました。

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蜂須賀氏が阿波入国の折、この勝占神社を二軒屋 金比羅宮として移遷した後にも勝占神社境内摂社 金比羅神として祭祀は続けられており、それが大己貴命とされて主祭神とされてしまったようです。後々に大己貴命大国主命)と少彦名命がセットで組み合わせられたのではないかと考えております。

残る須勢理比賣命と玉櫛姫、大山祇命ですが、当社は主祭神の后神、事代主神の娘を配しているということから事代主命から繋がる一統を指しており、即ち鎮座地である中山全体が長国造氏族の陵墓であることを暗示しているのではないのと考えた訳です。 (玉櫛姫は大宜都比売命大山祇命天手力男に比定:前回投稿に含む)

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勝占神社が鎮座している「中山(ナカヤマ):杉尾山」は聖なる山として取り扱いされていました。

杉尾山八丁之円
一、竹木伐採事
一、殺生し事
杉尾山 蓬庵(蜂須賀家正)を以て御禁制の事とのこと。

蜂須賀氏は徳島城建設にあたり長国造氏族の陵墓群があった山と、事代主命を祭祀した社を分けて移遷しました。しかし長国造氏族の祖 事代主命金比羅神として移遷したものの陵墓から分祭したのを憚ったのか境内社として残して祭祀しています。これが勝占神社の主祭神大己貴命に変わってしまった要因の一つなのかもしれません。

f:id:awa-otoko:20161003232518j:image(讃岐金比羅宮の扁額)

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さて、この勝占神社が鎮座する「中山」は、本来「長山(ナガヤマ)」であったと考えられます。上記に示したように長国造の山、長国造氏族の鎮まる地の意味が含められていたのでしょう。由緒書きにもあるように古くは田口氏、細川氏など阿波を守護した武将からも崇敬されていた社なのです。

 

さて、推測の域でのお話をいたしましょう。(笑)

唐突ですがawa-otokoは、、、

勝占神社こそ佐那河内村長峰鎮座「御間都比古神社」より分祠された長国造氏族の社であると考えています。

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粟国造 都佐国造は同祖 粟凡直 長直も基本一系なりしを属地に依て粟凡直長直に分して異姓を称するなる可し。

粟凡直と長直は同族であり、属地により姓を分けて称したとあります。

その分れ目の地こそ佐那河内村長峯。その地に鎮座するのは御間都比古神社だからです。

【長国造(阿波)】
長国造は長国(現・徳島県那賀川流域中心、徳島市佐那河内村小松島市勝浦郡・那賀郡・阿南市・海部郡)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代、観松彦色止命(みまつひこいろとのみこと)の9世孫である韓背足尼(からせのすくね、韓背宿禰)を国造に定めたことに始まるとされる。韓背足尼の後裔は長姓を称して国造を世襲し、支流の大海路命の後裔は長宗宿禰の姓を名乗り、後の長宗我部氏と続く。長公系譜では建日別命(たけひわけのみこと)は長国造・長我孫・都佐国造の遠祖であり、長氏は三輪氏と同族で事代主命(ことしろぬしのみこと)の神裔に位置付けられている。諸説を統合すると観松彦命が神武天皇の東征に抵抗した長髄彦(ながすねひこ、那賀須泥毘古)であり、韓背足尼はその子孫との説もある。
長国の本拠地は定かではないが、大化の改新後に粟国と合併して阿波国となり、国府は現・徳島市国府町になったという。また古墳等の史跡も見つかっていないが、名東郡佐那河内村にある御間都比古神社は初代国造・韓背足尼が祖神である御間都比古色止命(観松彦色止命)を祀ったと伝えられる。     

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上の写真に示した黄色点線は古代、長国造氏族が統括した範囲を示しています。山の峯続きから勝占神社へ、生夷神社からは勝浦川を下り勝占神社へと行き来していたことが推測できるのです。

地形的に考えてみても御間都比古神社の長峯が中心になって、山上の尾根伝いで東へ、山から下って南下し、本拠地である長国へ戻る際は勝浦川を利用していたと推測できます。

また、勝浦川も本来は勝占川であったのかもしれず、川の辺りに鎮座する現在の生夷神社こそが本来勝占神社と呼ばれた社なのかもしれません。現在の勝占神社:杉尾明神こそ、延喜式に記された勝浦郡 事代主神社の可能性も否めません。それはどちらの社も事代主命を祭祀していたからです。

ある文書には延喜式登録以前は勝占神社・事代主神社は同神、本社分祭の社であると記されているのです。

同郡西須賀村杉尾明神の社を勝占神社なる由亦沼江村蛭子社を事代主神社なる由申傳へたりと䖝若しくは蛭子社が勝占神社にて杉尾明神が事代主神社ならんも知る可からず。勝占神社と事代主神社は決めて同神、延喜以前に係る本社分祭の間なり

さて、今回の結論。

佐那河内村 長峯から起った長国造氏族は、積羽八重事代主命の生誕地である上勝 八重地方面に南下するグループと日が昇る東側に向かうグループに分かれて移動していったと考えます。

生夷神社は南下した集団が上勝八重地より勝占川を遡り、事代主命を崇敬して創設した社である。

東に向かった集団は農耕の傍らで海洋漁業の技術も発達させながら繁栄した。中心となった地域が勝占神社が鎮座した中山。

そして現在の勝占神社こそが事代主命 亦名 味鉏高彦根を祀った社であり、後に杉尾明神(杉尾のすぎは味鉏のすきを指す)と呼ばれた。

勝占神社は長国造氏族の祖神 御間都比古をさらに遡った「始祖 事代主命」を祭祀した勝浦郡事代主神社」だったのである。

 

南下したグループと東に向かった長直一族が、ちょうど集合したエリアがまさしく勝占神社が鎮座するエリアでしょう。勝占神社が鎮座する中山は古代では岬の先端にあたります。当地から沿岸部に進出し、居住区並びに勢力を拡大していったのではないでしょうか。

オマケとして粟国・土佐国同祖論を引用しておきます。(以前にも掲載済ですがw)

国造本記に都佐国造 志賀高穴穂朝御代 長阿比古 同祖三嶋溝杭命九世孫 小立足尼定賜国造とあるも同系也。伹国造長阿比古同祖と云へりは事代主命之後と云へきに溝杭命孫とあるは御妻の系を以て云うときは如此も云へけれども道理は違へる。而己ならず其溝杭命と云へるも甚だ信じ難し。如何と云うに御妻の系を祖に引く程ならば都佐国造も粟国造の如く女祖神に仕え奉る欤亦は都佐坐神社に並びて溝杭姫命之御社も在る可きに未だ聞かず。同郡朝倉神社に后神 天津羽羽神鎮まり坐すを見れば都佐国造は味鉏高彦根后神 天津羽羽神夫妻に神より出でたる系也。
国造本記の説は信じ難し。想うに天津羽羽神 三嶋溝杭命共に味鉏高彦根神之后神也。都佐国造の女祖神は羽羽神に坐すを溝杭姫命も同后神故混し誤りて国造本記に溝杭命孫と決めて出たる事也。
粟国造 都佐国造は同祖 粟凡直 長直も基本一系なりしを属地に依て粟凡直長直に分して異姓を称するなる可し。
天津羽羽神、阿波女神(大宜都比売命)同神當阿波国郡中、麻植、美馬、三好等を除き残る七郡より土佐国をかけて皆本来人種は此の神の氏人なり。八倉比賣大神の當国第一尊く坐す事を知る可し。土佐国一宮、阿波国一宮は夫妻之御神也。

以上、今回は勝占神社の例祭に合わせて投稿してみました。see you!!