awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

古語拾遺の説誤りなる事を知るべし。

どうも。awa-otokoです。皆さんは「忌部広成」と「古語拾遺」をご存知でしょうか。知らない人の為に説明を付けておきますね。

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忌部広成と古語拾遺
忌部広成:生没年不詳平安初期の官人で「古語拾遺」の選者である。延暦22(803)年3月に忌部を斎部に改めている。朝廷の神事に携わってきた忌部氏大和朝廷時代には中臣氏と並んで祭祀を担当していたが、大化改新後は中臣氏から藤原氏が出て政界で有力になり、奈良時代には祭祀関係の要職を独占するようになった。大同1(806)年8月には幣帛使の任用をめぐって両氏の間に争いが起きている。「古語拾遺」は翌2年2月に平城天皇の召問に応じて広成が選進したものであり、斎部氏の職能と功績を主張し、中臣氏への悲憤を吐露している。時に広成は81歳。翌大同3年11月、正六位上から従五位下に叙されたのを最後に史料にからは名前が消えている。「古語拾遺」には「日本書紀」や「古事記」にもみられない伝承が収められており、神話や古代氏族研究の上でもその内容は貴重とされている。

古語拾遺とは忌部広成が記録した、輝かしい忌部氏の由緒と中臣氏への恨みつらみが記録された古書。そのほかに古代の祭祀内容など記紀には記載されていない内容を記録しているため、研究材料として重宝されているとあります。

その古語拾遺をですね… 誤りがあると断言している古書を見つけてしまいまして…
f:id:awa-otoko:20171209222454j:image(出典先は出しませんが証拠の品。)

神武天皇の朝に忌部氏は何国より移り来し由信難し、且基本国を明記せざるは廣成(忌部広成)が知らざる也、當国は大粟姫命(大宜都比売命)を始めて開き給いし国也。其の御兄妹なる天日鷲命の御事跡を申し、或るいは大麻比古神 種穂神(天日鷲命) 大粟姫命三神共に一国経営為し給いし由の御伝えある事、最も符号して相違なき也。古語拾遺の説誤りなる事を知るべし。
決めて忌部氏當国に在るは日鷲命 始めにて神武天皇の朝に来りしには非ざる也。考えるに同書に天富命 更求㓇壌分阿波斎部率往東土播殖麻殻云云 阿波忌部所居使名安房郡(今安房国云云也)と同朝に富国の忌部氏を東土に分け住めせし事あり彼れ安房国阿波国にて言語の上同称なり…

古代において阿波忌部の祖神である天日鷲命の古跡が残る阿波国に、なぜ神武天皇と帯同して天富命が来るのか?(安房国から阿波国を開拓する動きについて)阿波国から分けた安房国から来たことを忌部広成が知らなかっただけだという内容です。明治期にもこのような事実を掴んでいた人物が存在したということですね。(詳しくは下記のリンクで↓↓↓)

しかもこの古書を記しているのは、上一宮大粟神社 大宜都比売命を崇拝する氏子なのです。当時の状況では一宮大明神の氏子は、高越大権現 天日鷲命を崇拝する氏子と仲違いする関係でした。そのような関係があるにも関わらず、太古は天日鷲命大麻比古神、大宜都比売命の三神により阿波国経営を示し、粟国、長国、そして忌部国による阿波経営を表しているものを許与しているのは、これを裏付ける伝承と証拠が存在し、確固たる自信があったほか考えられません。

awa-otokoも大宜都比売命天日鷲命とスポットを当ててきて、まぁまぁそこそこの証拠を提供したつもりなのですが、未だにまとまっていないのが大麻比古神。awa-otokoは大麻比古神=猿田彦神として絶賛推していましたが、これだ‼︎ という確証を得られていないのが現状です。

上記の過去記事には長国祖神である御間都比古神社に猿田彦大神宮を相殿した記録あり)

f:id:awa-otoko:20171210003643j:image(阿波の猿田彦は別の側面としてナガなのか… )

おっと、古語拾遺から話が逸れてしまいました。

今回「古語拾遺」を偽書として取り扱ったような題名にしてしまいましたがそうではなくて、あくまで安房と阿波の関係を忌部広成が知らなかったという指摘ですのでご注意下さい。

少しずつですが忌部氏についてわかってきましたね。現状注意すべきところは忌部氏というカテゴリーを広く捉え過ぎているということ。細分化して調査を進める必要がありますよね。

じゃ、今回はこのへんで。(・∀・)