神が去った阿波を統治した氏族
はい。Facebookのブログ投稿にてちょっとだけ告知したモザイク半分の謎の書。それは「阿波国古城諸将記」でございました。こちら元亀四年に記されたもので題名の通りに阿波の古城とそれを治めた城主を説明している書なんですね。
阿波国開主太玉命也 忌部主祖也 櫛明玉命也 天村雲命也(伊勢神主上神ナリ)此二神阿波麻植ニ鎮座ス 後東国ニ移住(安房国忌部社是也)其後武内宿禰領阿波云云
前書きの前書き。これを見て後の記録を確認してくださいという重要な説明です。当書では阿波国の祖神を天太玉命とし、天村雲命・櫛明玉命の忌部神が他国へ移動してからは武内宿禰が阿波を治めたと記録しています。Facebookではここまで出しましたがモザイクを外したものを用意したので続きを解読してみましょう。
神武天皇から八代目にあたる孝元天皇の後胤、武内宿禰は仁徳天皇の御代まで生き(三百十六歳)、高良大明神となられた。
もちろん人間がそんな長生きする訳はなく、武内宿禰の名を同族が世襲していったという解釈でよろしいとかと思います。
さらに武内宿禰の後胤、阿波真人広純は天智天皇の御宇の人。その十二代孫 阿波助国風は朱雀天皇の人。そして阿波助国風の子が桜間文治行直。さらに行直の十代孫には桜間外記太夫良連。良連は跡取りに恵まれなかったために甥の良遠を養子に迎える。その人が桜間助良遠。
ややこしいけどついてきて下さいね…
良遠の兄には阿波民部太夫成良。成良の子、成直(一説には教能)。そこからの系譜も脈々と続いて桜間助良遠の後胤が宗家となり後醍醐天皇の御宇までを記録されている。
成良の記録からは田口姓を名乗ったのは誤伝で本来は粟田姓であったと云われています。桜間の名は地名を採用したものでしょう。この成良から千波足尼との関わりを見いだしたかったのですが残念ながらこの書では関連付けすることができませんでした。
書には小笠原氏、細川氏の説明が続きますが、明らかに前書きの主軸は武内宿禰の後胤であるように感じます。当書の前書きからは武士が力をつけてくる平安時代末期までは阿波は武内宿禰の系譜を中心に統治されたようです。そして鎌倉、南北朝時代に源平藤橘の系譜が入り混じって本格的に氏族同士で混迷を極めていったのではないでしょうか。
以下の頁から阿波の古城と城主の説明に移ります。前書きほどのインパクトはないですが、時折「おっ!」っと唸る内容が記載されてい箇所も含まれています。
この頁からは各城と城主の知行、出身氏族の説明が記載されています。全体的に源氏(小笠原・三好・甲斐源氏含む)が多いのは平氏の落人狩り、監視を目的で阿波に入ってきた武将の系譜が多かったのだと考えます。やはり何かと有利だったのは源氏の血筋であり、勢力拡大に向けて系譜仮冒した武将が多かったのではなかったかと考えます。
一宮氏は三千貫の知行。かなり飛び出してます!
終わりに。
当書には古代阿波で活躍した氏族が間違いなく含まれています。一つは一宮氏。この氏族は一般的に小笠原氏源氏の支流で説明されていますが、本来は大粟山で大宜都比売命を祭祀を継承してきた古代氏族でしょう。(粟国造粟凡直氏族に養子に入ったのが一宮氏。)
そして武内宿禰の系譜は田口氏。武内宿禰の後胤は桂浦(勝浦郡)に居城を構えていたことが有名ですが、実は大粟山 上一宮大明神は田口大明神として一時的に祭祀されていた時期もあります。また神山神領 長満寺付近は田口成良の居城でもありました。
今回テーマとして挙げた武内宿禰の系譜としての田口氏、そして以前から提唱している粟国造粟凡直・千波足尼から田口氏との繋がりを解明することで新しい見解が得られると確信しています。見通しの悪い案件ですがこれからも継続調査してみたいと思います。