awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

吾は今夜、八風を起こして海の水を吹き、波に乗りて東にゆく、これすなわち我が去る由なり。

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石井町諏訪には式内社阿波國名方郡 多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社が鎮座しております。

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御祭神は「建御名方命」です。こちらは過去に紹介させて頂きました。  

 改めて読んでみますと、建御名方神の説明より高志の沼河姫についての説明が主であって建御名方神の祭祀については内容が薄いように感じました。
最近、名方郡派生の阿部氏を阿波女氏(阿波女社祖系)として調査した後、ぐーたら氏より【高志国造氏族の阿閇氏を追え!!】との助言を頂きまして、調べてみればなるほど。とても重要な内容が浮かびあがったのでした。 

「阿府志」によれば高志国造の阿閇氏が名方郡諏訪に住み、この地に産まれたという建御名方命を祀った。
社殿には信濃諏訪郡南方刀美神社(現 諏訪大社)は、奈良時代宝亀10年(779年)、当社から移遷されたものだと伝承されている。つまり元諏訪なのである。

大宜都比売命(大粟姫尊)を祭祀していた阿部氏は阿閇氏に繋がり、阿閇氏は建御名方神も祭祀していた伝承が残されているのです。

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うっかり見落としていましたが大粟神社が鎮座するのは名西郡。本来は阿波国 名東郡名西郡の二郡は、一つの名方郡(なかたのこおり)であり、名方とは「建御 “名方” 命」という神名から取られたとてもありがたい地名であります。

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勿論、地名に神の名を採用するに至って全く所縁のない神を採用するはずはありませんので、ここでいう高志国造の阿閇氏は名方郡の阿部氏と太い繋がりがあると考えても良いのではないでしょうか。

 個人的には上山村(神山町)に居住している阿部氏、名西郡石井町に分布している阿部(阿閇)氏について別系統と捉えていましたが、

阿府志に曰く…

名西郡上浦村(浦方ト云)家有 当家元祖成務天皇朝 高志国造 阿閇臣祖屋主思命三世孫 市命 高志国造定賜 此地ノ郷名也。家始リ二千年ニ及フ「阿閇」ハ「阿部」也。今ハ「阿部」「阿倍」「安部」等同姓也。 

を見れば、同族として考えてまず問題はないでしょうね。
それでは前置き説明はこれぐらいにして話を進めてまいりましょう。 f:id:awa-otoko:20160910104957j:image

阿波国名方郡鎮座の「多祁御奈刀弥神社」社伝によれば、信濃諏訪郡の南方刀美神社は阿波の多祁御奈刀弥神社から、宝亀10年(779年)に移遷されたものとなっています。
諏訪大社は本来、信濃諏訪郡 南方刀美(みなかたとみ)神社という社名であったということ。

f:id:awa-otoko:20160909231355p:image諏訪大社神紋)


また、諏訪大社の神紋「穀(かじ)の木」については、阿波剣山地に自生し、その皮は「大嘗祭」に際し「阿波」から貢進される「木綿(ゆう)」の原料になっていること、長野県では穀の木は育ちにくい木であるということで、こちらも阿波国より移遷された伝承を後押しする事例でございます。
云々...

 

あれ?www 諏訪大社阿波国の繋がりについて既に詳しく調べられてる方がおられました。やはり阿波古代史研究のエース、野良根公さんでした。諏訪大社の元宮は徳島にあった!? ( 徳島県 ) - 空と風 - Yahoo!ブログ

かなり早い時期でこの内容に着目し、考察を交えながら提唱していた野良根公さんはやはり只者ではありません。。。
わたくし如きが考察を語るまでもなく、上記リンクより野良根公さんの説明を一読頂ければ今回テーマの背景が良く理解できることこのうえなしです。ぜひ読んでみてください。

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さて、建御名方神建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)に痛めつけられて名方郡諏訪に移動しました。このような伝説を残し、建御名方神を祭祀した阿閇氏達はどのような過程を経て信濃国諏訪まで辿りついたのでしょうか。。。
それを追うにあたり、建御名方神の伝承と酷似した伝承を持つ神、「伊勢津彦」なる神の存在も見逃せなくなってきたのであります。

伊勢の國の風土記云はく、伊勢と云ふは伊賀の安志の社に坐す神、出雲の神の子、出雲建子命、又の名は伊勢都彦命、又の名は櫛玉命なり。
此の神、昔、石もて城を造りて此に坐しき。ここに、阿倍志彦の神、來奪ひけれど、勝たずして還り却りき。因りて名と爲す。

 伊勢津彦(いせつひこ)

伊勢津彦は、『伊勢国風土記逸文内に記述される国津神で風の神である。風土記逸文によれば、伊勢津彦命は大和の天津神に国土を渡すよう要求され、頑な断っていたものの、最終的に追われ、のちに天皇の詔りによって国津神の神名を取って伊勢国としたと記述される。逸文の一説では別の地名由来が記述されている。

逸文内一説の記述によれば、出雲の神(大国主命)の子である出雲建子命の別名が「伊勢津彦」であり、またの名を「櫛玉命」というと記しており、「伊勢」の由来についても、国号由来とは異なる記述が成されている。
それによれば、命は伊賀国穴石神社(現三重県阿山郡)に石をもって城(キ)を造っていたが、
阿倍志彦(アヘシヒコ)の神(『延喜式神名帳』内の伊賀国阿倍郡の敢国神=アヘノクニツカミと見られる)が城を奪いに来るも、勝てずして帰ったため、それに(石城=イシキ、またはイワキの音が訛って)由来して「伊勢」という名が生まれたと記す。(一部Wikipediaより引用)


伊勢の地名の由来・語源と建御名方神(タケミナカタ)の謎

以前からわたくしが興味深く読ませて頂いていたBlogさんでございます。(最近更新が滞っていてとても残念です… )こちらのBlogさんについても伊勢津彦建御名方神として考察されております。

しかも考察の締めには、"伊勢国 風土記逸文の伊勢の国号にあるストーリーは、建御名方神(=伊勢津彦)の拠点のあった"阿波の伊勢"で起きた出来事だと類推されます。現在の三重の伊勢は、後世に、「伊勢」が他から移された結果だと考えた方が良いと思います。" 

なんて書かれております。こちらも一読頂ければと思います。

という訳で、伊勢国風土記逸文の記すところについて、ここは阿波国に存在する伊勢として考えてみましょう。

それ伊勢の国は天御中主尊の十二世の孫、天日別命の平けしところなり。
神武天皇、天日別命に勅して「天つ方に国ありその国を平けよ。」との勅を奉けて東に入ること数百里、その里の神あり。名を伊勢津彦という。
天日別命は「汝の国を天孫に献上するや」といえば、伊勢津彦も答えて言う。「吾はこの国を治めて居住こと久し、命をば聞かじ」と。
天日別命は怒り、兵を発して、伊勢津彦を戮さんとす。
伊勢津彦は伏して畏み「わが国はことごとく天孫に奉りて吾はこの国におらじ」と申した。
天日別命は重ねて問うに「汝が去るときなにをもって験となさん」と。
それに答えて「吾は今夜、八風を起こして海の水を吹き、波に乗りて東にゆく、これすなわち我が去る由なり」と申した。
天日別命、兵を整えて窺いおりしに夜中に至るころ、大風四方に起こりて波を打ち揚げ日のごとく光り耀きて陸も海もともに明らかになり遂に波に乗りて東に去りき。
古語に「神風の伊勢の国は常世の浪の寄する国なりというは蓋しこのいわれなり。天日別命、大和に還り天皇に、この由復命すれば大く歓びて「国は国神の名を取りて伊勢と号くべし」と詔り給う。

「吾は今夜、八風を起こして海の水を吹き、波に乗りて東にゆく、これすなわち我が去る由なり」そう告げて去った伊勢津彦はその後、信濃国水内郡へ遷ったとも伝わります。また、立ち退かせた天日鷲命は宇治山田付近の長であった大国玉命の娘 弥豆佐々良(みつささら)姫を妻としたと伊勢国 風土記逸文にあります。これが度会(わたらい)氏の祖先であり、度会氏はご存知、豊受神宮(外宮)の禰宜神官家であることは皆の知る通りでございます。

うぅぅ… 建御名方神伊勢津彦は同神と考えられるのですが、双方の伝承の時系列の違い、また取り巻く神々が今ひとつ頭の中でリンクしません。 

考えるに、、、阿波国伊勢で起こった 建御名方神伝承が、のちに伊勢地方に進出した阿閇氏において語られることによって時系列や神名を無視した伝承となって現在に至っているように思います。。。

 

建御名方神建御雷之男神の争い。
伊勢津彦と天日別命・神武天皇との争い。


この二つの争いを同じものとして考えてはいけないのかもしれません。


建御名方神伝承は諏訪大社ルーツ。

伊勢津彦伝承は伊勢神宮 外宮ルーツ。

 

このように阿閇氏と忌部氏、高志国造と阿波国造、建御名方神伊勢津彦)と天日鷲命(天日別命)。これを個々で洗いなおせば阿波国から諏訪大社伊勢神宮 外宮が遷座した秘密が必ず解けるはず。

今回は大社と神宮の秘密を一括りでまとめようと欲張り過ぎました。その結果、結論を突き詰めることができなかったのです。

とりあえず私も、「吾は今夜、八風を起こして海の水を吹き、波に乗りて東にゆく、これすなわち我が去る由なり」(遠くへ行きたい)心境です。。。

また改めて当テーマはリベンジします。