awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

弓折の椙尾明神

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阿波・土佐・淡路の守護職として白鳥村鳥坂に居城した佐々木経高は承久三年(1232)後鳥羽天皇の詔を奉じて兵を起こしたが敗れて自殺した。

鎌倉幕府は佐々木氏に代わり小笠原長清を阿波守に任じ、長清は阿波へ入ると、まず佐々木氏の居城であった名西郡の鳥坂城を攻めた。ほとんど兵のいない鳥坂城は簡単に墜ちて炎上した。留守を守っていた経高の二男 佐々木高兼は家臣 平岡六郎利清が長男 佐々木高重の子、秀経を抱きながら一族郎等山中へ敗走することになる。
小笠原氏は高兼の生存を許さなかったために追走は厳さを極め、ついに鬼籠野村の山中で高兼は身柄を確保されるに至った。高兼は一族と家臣達が百姓となり、この地に住む事を条件に自ら弓を折ってから腹を切って自害したという。佐々木高兼が自刃した地が神山町鬼籠野の弓折である。

鬼籠野 弓折の地名の由来でした。
弓折は後に蜂須賀氏が阿波入国した際に、武家が治める地において弓折の名を忌み名とし、阿波国(一宮城からみて)初めての坂ということで「一ノ坂」と改名させ、現在の地名も「一ノ坂」です。また佐々木高兼の功により生きながらえた一族は佐々木姓を継承し、武家の血を絶やすことなく現在も尚この地で生活を営んでいます。

以前に鬼籠野神社のテーマの中で鬼籠野村 椙尾神社について一部触れました。土地感がなかったawa-otokoは鬼籠野神社周辺に椙尾神社が鎮座するものとばかり考いたのですが…

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調べてみれば弓折の地は西竜王山の真裏、深い山中の谷あいにある集落でありました。ちょうど神山と佐那河内と境に位置する場所にあたり、昔は山越えで鮎喰川方面に抜け移動していたと推測します。また、山越えして弓折に降りれば船戸川が流れており、古来物資の輸送は船で行っていたとも考えます。 

さてさて、件の弓折鎮座の椙尾神社ですが…
たぶん、現地の方に場所を聞かないと行き着くことは叶わないでしょう。弓折の中の弓折、中心部(一ノ坂)に車を駐車し、椙尾大明神の参拝に向かいます。


椙尾神社はスダチの木々に囲まれ、二秀峰の山麓に鎮座することから社殿が道路から見えません。参道もスダチの木々に隠されていることで、細い路地を辿って行かなけれなりません。

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神社本殿を確認してかなり驚きました。社殿は山を背にして石積みで高い位置に造られた要塞に見えます。

椙尾大明神と彫られた手水鉢、当社筆頭氏子であろう佐々木氏が連名で刻まれ、常夜灯には一ノ坂名講中とあります。

f:id:awa-otoko:20160910235719j:image(手水鉢)

f:id:awa-otoko:20160910235735j:image篤志寄付者)

f:id:awa-otoko:20160910235751j:image(常夜灯)

この椙尾神社が矢野村 椙尾神社(現 天石門別八倉比賣神社)の分祀であると考えられる理由は二つ。


鳥坂に居を構えていた佐々木氏は息長田別皇子が神領より勧請した大宜都比売命の社の存在が身近に存在したことから氏神として祭祀していた。当主が討死、次期当主も自刃、農民となっても佐々木家の再興を祈願するため矢野 椙尾大明神を弓折に勧請した。

 

古代から佐那河内村で祭祀されていた天石門別豊玉比賣神社を勧請した社(祠)が元々、鬼籠野 弓折に存在しており、同じ流れを汲む(と思われる)矢野 椙尾明神と同じ祭神として祭祀した。

 

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あくまで個人の想定範囲内での内容でございますので参考程度で考えて頂ければと思います。(佐々木一族の中から弓折の椙尾大明神の由緒が記載された古文書が発見れれば面白なると思います。)

 

何故、それほどまでに「弓折の椙尾明神」をピックアップするのか…

当社、弓折 椙尾明神は大宜都比売命こと大日孁命である天石門別八倉比賣命と、その次期後継者である豊玉比賣命(壹与)こと、壹与孁神である天石門別豊玉比賣命とを判別する大きな鍵を握っていると思われるからです。(今後の調査に期待ですネ。)

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余談ですが、椙尾神社は椙尾明神。祟り神の一面も持ち合わせているように感じます。佐々木一族を壊滅させた小笠原一族(が祭祀した一宮大明神)を牽制するかの如く、椙尾明神として祭祀し、佐々木一族は興隆の機会を伺っていたのかもしれません。だって場所的に考えると一宮大明神として祭祀しても問題はなかったのですから…

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神殿扁額には「椙尾大明神」が記載されていますが、境内には「椙尾明神」と刻まれた石物が目に付きます。境内に並ぶ五つの祠が佐々木一族の祠… とすれば、明神(祟り神)こそ、この五つの祠で祭祀されている方々なのかもしれませんね。

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考え過ぎ、、、ですかねぇ。。。