awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

中鳥島 伊射奈美神社の元社跡に行ってきた☆

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今は無人島になっている中鳥島。過去の大洪水から陸地より分断されて、なかなか島まで渡ることができませんでした。

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年末年始にかけて中鳥島周辺の水量がひいているという情報を入手していましたところで、たまたま近くを通ったことでチャレンジしてきました。

f:id:awa-otoko:20180106223915j:image(北側)

f:id:awa-otoko:20180106223943j:image(西側)

f:id:awa-otoko:20180106224150j:image(南側)

えぇ。めっちゃ砂に脚を取られ、川砂利につまずきながら歩きましたよ。(もうこの時点で疲れている。)

f:id:awa-otoko:20180106224612j:image(中鳥城の石垣)

さて、登るポイントはたくさんあります。行く人は各人のお好みで選ばれたらいいと思います。(当たりハズレ有り)

awa-otokoが登ったポイントは長年の勘から選んだのですがビンゴ。中鳥城(学校跡)の石垣前に出ました。

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やっとこさ竹と荊を掻き分けて出ると…

f:id:awa-otoko:20180106225249j:image(中鳥城跡・中鳥学校跡)

f:id:awa-otoko:20180106225514j:image(謎の建造物: 蔦が絡んでわからんかった。)

島の中で迷った場合によく目を凝らして周囲を見ればきちんと参道も残っているので、自分の所在地はわかりやすいと思います。

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さて、それではなかなかお目にかかることがないと思われる伊射奈美神社の元地の状況をお見せしたいと思います。

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現地に行くとなかなか感慨深いものがあります。

ま、伊射奈美神社の詳しい内容は他のブロガーさん達がこぞって挙げられているのでそちらをご覧になって下さいな。

f:id:awa-otoko:20180106230924j:image(十年前に建設された石碑。の裏な。)

ちなみにawa-otokoの考えは、中鳥島 伊射奈美神社の元社であるという事には賛同しますが、阿波国イザナミ神社の元社であるとは思っておりませんので悪しからず。まぁ、新年早々小難しいことを羅列するのも何なんで今回はここまで。

たぶん元社跡に行く人もいると思うので注意点を。イノシシのヌタ場とかが結構あるので鉢合わせしないように。登っても降りるポイントを間違えたら…  あと、目利きの人なら嬉しい拾い物ができるかも。(ここでは言わないけど。)

それではまた。( ´∀`)

2018 あけおめことよろ

f:id:awa-otoko:20180101014446j:image(天石門別八倉比賣神社)

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謹賀新年

明けましておめでとうございます。

f:id:awa-otoko:20180101014727j:image上一宮大粟神社

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新年さっそく阿波ノ国魂神 大宜都比売命の御祈祷を頂いてから粟神の神社 二社(上一宮大粟神社、天石門別八倉比賣神社)を参拝してきました。

忌部神は混雑が緩和してから参拝したいと思います。何はともあれどうぞ今年もお付き合いの程よろしくお願い致します。(^人^)

神山の新田八幡神社は本来何であったのか⁈

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楠正成、新田義貞という名将が戦死した後、四国の南朝方勢力の挽回するために興国元年(一三四〇)四月三日、義貞の弟である脇屋義助が四国官軍総大将に任ぜられて伊予国川之江城に入城した。義貞の二男義宗、義助の子式部大輔義治とその弟義広なども川之江城に集結したがタイミング悪く、脇屋義助が同年五月十一日に病死。その機を逃さなかった阿波守護職 細川頼春は大軍を川之江城にさし向け義宗はじめ土肥、得能の南朝方武将を攻めて城を落とした。義宗は難を逃れて伊予国宇摩郡下川邑で蟄居した後、応永四年(一三九七)当地で没した。義宗の従弟 脇屋義治は阿波の三好郡井内谷に入り、祖谷山の豪族勢力を頼みして時機を待ち、やがて八石城を築いて立て籠もり、四〜五年戦って抵抗したが八石城も落ちた。義治は阿波郡日開谷に逃れ、のちに貞光山中に隠れて応永二六年(一四一九)七月十四日に没した。

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阿波には新田一族の痕跡が多く残されています。新田一族を祀る新田神社は全国で徳島県が一番多く、県内で四十七座が存在します。これらの新田神社は新田義貞、義顕、義興、義宗、脇屋義助、義広らが祀られているのであります。新田氏を祀る南朝方に依る者達も平家同様に忌部(麻植)を頼って阿波に入ってきたのでしょう。

と、不思議なのは名西郡神山町金泉に鎮座する新田八幡神社です。なぜ神山町に新田神社なのでしょうか?

f:id:awa-otoko:20171226001950j:image(新田八幡神社
中世一時的に神山に入ってきた木屋平勢によって新田大明神が遷座されたとawa-otokoは推測しております。

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また、現在の「新田八幡神社」という社名からも新田大明神と八幡神が融合されたことが判断できるのではないでしょうか。

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通説で考えたらね。ここまでは。

で、さんざんこれまで新田氏絡みの展開で進めていきましたが、おもいっきり話題を逸らしてみたいと思います。awa-otokoは捻くれ者なので。(笑)

まぁ下の地図を見てみてくださいな。

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(それにしても地名が面白いなぁ。興味津々だわ。)

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今、新田八幡神社

昔、仁生田(にうた)神社

仁生田(にうた)が新田(にった)に転訛したのでしょうか。本来が仁生田(にうた)であったならば 丹生(にう)の意を含んでいると考えるのが当たり前でしょう。

辰砂 - Wikipedia

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阿波で丹生といえば若杉山遺跡が有名ですが、大宜都比売命の足取り、稲荷神発祥の地との繋がりを考えれば若杉山遺跡から神山 丹生山まで辰砂採取を移動していった形跡とリンクするのではないでしょうか。(考え過ぎ?)

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新田八幡神社が鎮座する神山町上分金泉では古来から財宝が眠っているという伝説がございます。この財宝が古来から発掘されていた辰砂(朱)のことであったならば…

思い出してみてください。上一宮大粟神社神殿の朱、新田八幡(仁生田)神社の屋根の色を。

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辰砂と稲荷、大宜都比売命。もう少しこの繋がりを深く調査してみたいと思います。(;´д`)汗汗汗…

(前半の新田氏は全然関係なくてすまんの。)

徳島県誌略に記されし阿波國を統率した者

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古代、現在の徳島県の北の地域は粟の生産地により粟国、南の地域は長国と呼ばれた。のちに律令制において長国造の領域を含め令制国としての粟国が成立。和銅6年(713年)、元明天皇による好字令で、地名を二字で表記するため「粟」は「阿波」に変更された。皇政の始より鎌倉幕府創立の時に及ぶまで、凡千八百五十年余年間阿波国の統率に關繫ある者を擧ぐれば槪ね次の如し。

どうも。awa-otokoです。いろいろ忙しくてなかなかブログが作れません… 。ぽつぽつと下書きを打ったりはしていたのですが、とっておきの大ネタにはとりかかれずじまいナノデス…。

という訳で、今回は「徳島県誌略」に記載されている阿波国経営に加わった人物を引用しただけの構成になっています。情報は寄せ集めですが各人の地位や経歴を見たら唸るものがあります。こちら貴人達の情報をいろいろ考察する種として使用して頂ければありがたいですね。それではどうぞ。

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息長田別命

日本武尊ノ王ニシテ成務天皇ノ時来リテ當國ヲ治シ子孫世世之ニ居ル阿波君ト称セリ

日本武尊の本陵(白鳥神社) - awa-otoko’s blog

白鳥神社の参道を指す鳥坂から出てきたもの - awa-otoko’s blog

ぜんぜん跡形ないぞ⁉︎ 阿波國國司廳趾‼︎(とその秘密) - awa-otoko’s blog

伊勢王

天武天皇十二年天下ヲ巡行シテ諸國ノ境界ヲ分限ス

伊勢王(いせのおう)とは - コトバンク

路跡見

直廣参ヲ以テ同十四年國郡及ビ百姓ノ消息ヲ巡察ス

跡見(アトミ)とは - コトバンク

大伴道足

正四位タリ天平三年始メテ南海道鎮撫使トナル 

大伴道足 - Wikipedia

巨勢島村

同十六年南海道使タリ

巨勢斐太島村(こせのひだの しまむら)とは - コトバンク

紀麻呂

参議従四位タリ同十八年南海道鎮撫使トナル

紀麻呂 - Wikipedia

阿部廣人

従六位タリ天平寶字二年南海道使トナル

阿倍氏 - Wikipedia

吾は今夜、八風を起こして海の水を吹き、波に乗りて東にゆく、これすなわち我が去る由なり。 - awa-otoko’s blog

馬夷麻呂 

典薬頭従五位タリ同四年南海道巡察使トナル

馬夷麻呂(うまの ひなまろ)とは - コトバンク

高向家主

従五位タリ天平神護二年南海道巡察使トナル

高向家主 - Wikipedia

石上家成

従五位タリ寶亀三年南海道ニ遣サレ分頭覆損ノ事ヲ主トル

石上家成 - Wikipedia

多治比三上

従五位下タリ大寶七年南海道検税使トナル

多治比国人 - Wikipedia

小野馬養

従七位タリ大寶三年南海道ヲ巡省ス

小野馬養 - Wikipedia

高安王

伊豫守従五位上タリ養老三年始テ按察使ヲ置ク王阿波、讃岐、土佐ノ三國ヲ管シ其ノ所管ノ國司若シ非違及ビ百姓ヲ㑴淫スルモノアラバ則チ親シク自カラ巡省シ状ヲ量リテ黜陟シ其ノ徒罪以下ハ慚決シ流罪以上ハ状ヲ録シテ奏上ス若シ馨教脩潔ニシテ都内粛清ナレバ具サニ善ノ最ナルモノヲ記シテ言上スト云云

大原高安(おおはらの たかやす)とは - コトバンク

驚愕の事実 剱山大権現縁起(阿波弁Ver) - awa-otoko’s blog

多治比木人

従五位下タリ天平寶字六年南海道巡察使トナル

多治比木人 - Wikipedia

百済敬福

百済義慈王ノ玄孫ナリ人ト為リ慈辯二シテ従政ノ才アリ 聖武天皇特ニ之ヲ寵過スト蓋シ資ヲ傾ケテ貧家ヲ賑シ徐財ナシトゾ天平寳字五年南海道節度使タリ従五位上藤原田麻呂従五位下小野石根等副タリ判官四人紀伊、阿波、讃岐、伊豫、土佐、播磨、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、等十二國船一百二十一隻兵士一萬二千五百人子弟六十三人水手四千九百二十人ヲ検定ス天平勝寳四年従三位ニ叙ス時ニ陸奥守タリ黄金九百両ヲ献シ因テ従五位上ヨリ進ミタリト云フ

百済王敬福 - Wikipedia

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吉備泉

延暦二十五年従四位下ヲ以テ南海道観察視兼右京大夫タリ

吉備泉 - Wikipedia

千波足尼

高皇産霊九世ノ孫 軽島豊明天皇阿波國造ニ拝ス

粟国造 - Wikipedia

豊穂ハ豊茂理亦ハ豊成ナドノコトニヤ - awa-otoko’s blog

千波足尼(ちはのすくね)。名前の由来 - awa-otoko’s blog

安房千葉氏と阿波粟飯原氏にまつわる天女伝説 - awa-otoko’s blog

大伴大瀧

天穂日命八世ノ孫 弥侶宄岐ノ孫 志賀高穴穂天皇阿波國造ニ拝ス

阿波国造 - Wikipedia

韓背足尼

観松色止命九世ノ孫 志賀高穴穂天皇長國造ニ拝ス

長国造(阿波)

勝占神社は事代主神社 "祭神も事代主神 一柱だ!!" - awa-otoko’s blog

仮説:猿田彦神が韓背宿禰の祖であったなら?(佐那河内 猿田彦大神宮) - awa-otoko’s blog

佐那河内の神社についての記録、御神宝いろいろ - awa-otoko’s blog

阿閉市命

阿閉臣祖屋主思命三世ノ孫 志賀高穴穂天皇國造ニ拝ス

大彦命 - Wikipedia

三日月と女(大宜都比売命の神裔) - awa-otoko’s blog

 

粟豊穂

阿波ノ人 正六位上ヲ以テ延暦十年阿波國造二拝ス

豊穂ハ豊茂理亦ハ豊成ナドノコトニヤ - awa-otoko’s blog

藤原真作   

参議巨勢麻呂ノ子ニシテ阿波守タリ 蓋シ天平寶字中ノ人

藤原真作 - Wikipedia

葛井根王

豊野篠原共ニ傳記未詳

葛井親王 - Wikipedia

菅原清公

大同年間ノ人 遣唐判官兼近江槽称ヲ以テ唐ニ至リ大使ト興二徳宗ニ見エ弘仁ノ初左京亮ニ補セラレ大學主殿頭左右少𦎾ヲ歴テ式部少輔ニ遍リ阿波守ヲ兼ス後従三位ニ叙セラル寶ニ菅原道真ノ祖父ナリ 

菅原清公 - Wikipedia

野見宿禰から繋がる天神村の天満天神 - awa-otoko’s blog

山田古嗣   

天長中陸奥按察使記事タリ 承和中従五位下ニ進ミ阿波守ニ任ゼラル 池溝ヲ堀リ陸堤ヲ造リテ灌流ニ備フ治績大ニ顕ハル廉清寡言又至孝ナリシ

山田古嗣 - Wikipedia

薬王子大権現は古の医療の神(薬王子神社) - awa-otoko’s blog

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善道真貞

右京ノ人 少壮既ニ學名ヲ馳ス 弘仁中博士トナリ等テ越前大橡相模櫂介ヲ懸テ天長中大學助陰陽頭トナリ従五位下ニ進ム表請シテ善道宿禰ノ姓ヲ賜ヒ阿波守ニ任ゼラル然レドモ合義解ノ撰ニ興レルヲ以テ任ニ赴カス其ノ學トスル所ハ文字ノ末ニ拘ラズ俗通ヲ旨トス大ニ大學ニ重視セラル

善道真貞 - Wikipedia

長峰高名

亦賜冠ニシテ學名ヲ負フ 年二十一ニシテ文章生ニ補セラレ式部民部両省ノ少録少内記タリ 家貧ナルヲ以テ外任ヲ請ヒ天長中安房橡二任ゼラル後正六位上ヨリ外従五位下ニ進ミ大膳亮美作櫂介ヲ兼ス 藤原常嗣 小野篁遣唐使タリシ時常嗣ニ◼️シテ唐ニ入ル 篁ハ病ト称シテ行カザリシヲ以テ高名唐ニ至リテ殿ニ上ルヲ得タリ 帰リテ伊勢介ニ除セラレ正五位下ニ進ミ嵯峨院別當トナリ山城、阿波ノ守ヲ歴テ後數官ヲ累ネ天安元年官ニ卒ス 子孫ヲ戒メテ簿葬セシムト

源明   

嵯峨天皇ノ皇子ニシテ明悟學才アリ 天長九年大學頭タリ 承和中加賀、近江、播磨ノ守ヲ兼ネ左京太夫ニ任シ刑部卿ニ還リ越中守ヲ兼ス 嘉祥元年阿波守ニ還リ同二年参議ニ拝ス帝崩スルニ及ビ衰悼遂ニ僧トナリ素然ト號シ横川ニ居ル横川宰相入道ト称ス

源明 - Wikipedia

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藤原國風  

天慶中讃岐介タリ 或ハ又阿波守タリトモ云フ 盖シ相兼ネタルニヤ 是レヨリ先キ承平中南海道群盗蜂起シテ沿海ノ郡邑ヲ妙略ス時二伊豫椽純友異謀ヲ懐ク延議紀淑人ヲ伊豫守トシテ以テ追補ノ事ヲ行ハシム 是ノ時ニ當リテ平将門常陸、下総ノ間ニ起リテ僣疑自居ル純友遥カニ之ニ応ジ日振島ニ據リ黨興ヲシテ京師ヲ優サシム時ニ國風讃岐ニ在リ之ト戦ヒ敗レテ阿波ニ走リ又淡路二奔ル 純友遂ニ伊豫、讃岐ヲ略シテ山陽道ニ進ム 後官軍ノ為メニ捕蕩セラレ國風亦讃岐二還ルコトヲ得タリ

デジャブで勧請かよ⁉︎ 鳩の原八幡宮‼︎ - awa-otoko’s blog

桜間文治行直

國風ノ子ニシテ後代桂浦城主櫻間成道ノ先ナリト或ハ曰ク行直ハ阿波ノ豪族ニシテ純友ノ亂ニ國風ヲ援ケテ讃岐二戦ヒ敗レテ山中二潜ミシカ又阿波ノ豪族 椙尾右馬介資宗ノ一千余騎ヲ率ヒテ國風ノ軍ニ加ハルニ會シ供ニ進ミテ敵軍ヲ破ルヲ得タルトナリ

神が去った阿波を統治した氏族 - awa-otoko’s blog

佐(々)木経高

季義ノ子ナリ 先世近江佐々木ノ庄ニ居ル乃チ氏トス 秀義平氏ノ為メ遂ハレテ相州波多野ニ居ル経高乃チ澁谷重國ノ女ヲ娶ル源頼朝兵ヲ挙グルニ及ビ私ノ為ニ義ヲ◼️サス 兄定綱ト興ニ伊豆ノ目代平兼隆ヲ攻メ其當堤信遠ヲ討チ遂ニ之ヲ斬ル 此ノ戦ハ頼朝挙兵ノ最先駆ナリト平氏亡ルニ及ビ中務丞ニ補サレ淡路、阿波、土佐ノ守護トナリ京師ヲ護ル正治ニ年大和ノ賊京師ヲ犯サムトスト聞キ兵ヲ其ノ領國ニ徹ス 後鳥羽上皇其ノ壇ニ兵ヲ動シテ輩殺ヲ擾シ且國司ヲ蔑スルヲ憤リ幕府ヲシテ統治セシム為ニ職ヲ罷メ邑ヲ沒セラル祝髪シテ経蓮ト稱ス明年子高重寃ヲ幕府ニ訴フ頼家覆議セシメテ罪ヲ宥シ食邑一所ヲ復セラル(略)

弓折の椙尾明神 - awa-otoko’s blog

小笠原長清

信濃守遠光ノ第二子ナリ(阿波古城諸将記ニ云ク小笠原左京大夫信濃守長時(又云時氏)正四位下承元元年丁卯為阿波國守護職任阿波守長時子長清子弾正少弼侍従長義長義子長經長房干時文永丁卯四年云々蓋シ説アルニ似タリ)甲斐小笠原ニ生ル 加賀見二郎ト稱ス 源頼朝ノ起ルニ及ビテ甲斐源氏駿河ニ至リ黄瀬川ニ合ス是ヨリ先キ長清兄秋山光朝ト平ノ知盛ニ属シテ京師ニ在リ 母ノ病ヲ省スルニ託シ堅ク歸ヲ請ヒ甲斐ニ至リテ遂ニ頼朝ニ謁ス承久ノ役武田信光ト共ニ将トシテ東山道ニ出テ撃テ官軍ヲ走ラス功ヲ以テ阿波守護トナル 仁寿三年卒ス 年八十一長清騎射ニ精シ後世相傳ヘテ以テ矜式ト為ス子長経、時長、行長、長経弥太郎ト称ス 頼家ニ親昵セラレ常ニ左右ニ侍ス 又金能員ト友トシ善シ能員敗ル、二及ビテ連居坐シ幽セラル子長房阿波守護タリ子孫阿波ニ在リ

 小笠原長清 - Wikipedia

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細川頼春

刑部太夫ト称ス 延元二年細川定禅ノ後ヲ継ギ足利尊氏ニ従ヒ四國官領ニ補セラル 阿州板東郡勝瑞ニ屋形ヲ構ヘテ居城トス 阿波ノ守護小笠原長房並、坂西、板東、海部、秋月等ノ諸将皆細川家ノ幕下ニ属ス

細川頼春 - Wikipedia

細川持隆

讃岐守成之ノ玄孫ニシテ頼春九代ノ孫ナリ 讃岐守ト称シ亦阿波國勝瑞ニ居リ阿波屋形ト號セリ 三好元長四子アリ 長ヲ長慶トシテ次ヲ義賢トス 父ノ意ヲ受ケ板東郡住吉神社ノ神主トナル 武ヲ講シ勢ヲ張ル 持隆之ヲ見テ意顧ル平カナラズ 天文中足利義冬當國ニ来リ潜ム 持隆一日三好ノ族ニ語ルニ義冬ヲ助ケテ京師ニ入ラシメムトスト衆皆之ニ賛ス 独リ義賢之ヲ肯カズ持賢之ヲ含ミ遂二義賢ヲ殺サムト欲ス乃チ侍臣四宮興吉兵衛ヲシテ相撲ノ興ニ託シテ義賢ヲ招カシム 興吉兵衛謀ノ成ラザルヲ察シ却テ寶ヲ以テ義賢ニ語リ以テ自カラ安ニ居ル義賢乃チ却テ言ヲ巧ニシ人ヲシテ持隆ヲ郊外ニ道逢セシメ暴カニ企ミテ見性寺ニ自殺セシム 実ニ天文二十一年八月十九日ナリ 持隆ノ妻ハ大内義隆ノ妹ニシテ子ナシ 防州ニ帰リテ尼トナル 妾アリ 少将ト云フ 岡本美作ノ女ナリ 一子ヲ産ム後掃部頭真之ト云フ 義賢少将ヲ奪テ己ノ妻ト為シ三好長治十河存保等産メリ

細川持隆 - Wikipedia

細川眞之

持隆ノ妾ノ出ナリ 掃部頭ト称ス 天正十年十月八日異負父弟三好長治ト相悪シク党ニ仁宇谷ノ奥、蕨ヶ岡ニ於テ長治及異父弟十河存保ノ為メ追リ殺サル 頼春ヨリ真之ニ至ルマデ十一世ニシテ亡ブ

 細川真之 - Wikipedia

三好長基

初元長ト称ス 長輝ノ子ニシテ筑前守ト称セリ 永正十七年細川晴元ニ従ヒテ京師ヲ侵ス 将軍義植阿波ニ走ル屢界浦ニ戦フ諸将多ク晴元ニ諸ス覚ニ堺浦真奈美荘ニ拠リ祝髪シテ海雲ト號ス 細川之持ニ依リテ成ヲ求ムレドモ晴元聴カズ之持帰リテ天文元年三月阿波ニ帰ル 海雲素ヨリ功アリ故ニ巧ヲ恃ミテ嬌奢兵櫂ヲ私セムトス 晴元快々タリ 然レドモ宗族持隆ノ如キ者皆暗愚ニシテ勢暫ク衰頺シ三好氏ハ■ス隆盛トナレリ(略)

三好元長 - Wikipedia

はい。なんとな〜くなんですが氏族の偏りがあるような、ないような、、、(意味深)。あと、拙ブログを読んで頂いている人なら諸々の繋がりが理解して頂けるのではないでしょうか。「徳島県誌略」に記載されていた古代より阿波国の経営に携わってきた偉人達の情報でしたが、ところどころにこれから調査する種が隠されていると思っています。

さて、年末ギリギリまで忙しい状況とawa-otokoのブログ作成意欲の低下(笑)もあり、年末年始に大ネタに取り掛かるかは今のところはわかりません。この状況が改善されるまではFacebookページでの投稿を増やして小ネタ投稿予定です。

それでは残り少ない2017年を有意義にお過ごし下さいませ〜。(^人^)

古語拾遺の説誤りなる事を知るべし。

どうも。awa-otokoです。皆さんは「忌部広成」と「古語拾遺」をご存知でしょうか。知らない人の為に説明を付けておきますね。

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忌部広成と古語拾遺
忌部広成:生没年不詳平安初期の官人で「古語拾遺」の選者である。延暦22(803)年3月に忌部を斎部に改めている。朝廷の神事に携わってきた忌部氏大和朝廷時代には中臣氏と並んで祭祀を担当していたが、大化改新後は中臣氏から藤原氏が出て政界で有力になり、奈良時代には祭祀関係の要職を独占するようになった。大同1(806)年8月には幣帛使の任用をめぐって両氏の間に争いが起きている。「古語拾遺」は翌2年2月に平城天皇の召問に応じて広成が選進したものであり、斎部氏の職能と功績を主張し、中臣氏への悲憤を吐露している。時に広成は81歳。翌大同3年11月、正六位上から従五位下に叙されたのを最後に史料にからは名前が消えている。「古語拾遺」には「日本書紀」や「古事記」にもみられない伝承が収められており、神話や古代氏族研究の上でもその内容は貴重とされている。

古語拾遺とは忌部広成が記録した、輝かしい忌部氏の由緒と中臣氏への恨みつらみが記録された古書。そのほかに古代の祭祀内容など記紀には記載されていない内容を記録しているため、研究材料として重宝されているとあります。

その古語拾遺をですね… 誤りがあると断言している古書を見つけてしまいまして…
f:id:awa-otoko:20171209222454j:image(出典先は出しませんが証拠の品。)

神武天皇の朝に忌部氏は何国より移り来し由信難し、且基本国を明記せざるは廣成(忌部広成)が知らざる也、當国は大粟姫命(大宜都比売命)を始めて開き給いし国也。其の御兄妹なる天日鷲命の御事跡を申し、或るいは大麻比古神 種穂神(天日鷲命) 大粟姫命三神共に一国経営為し給いし由の御伝えある事、最も符号して相違なき也。古語拾遺の説誤りなる事を知るべし。
決めて忌部氏當国に在るは日鷲命 始めにて神武天皇の朝に来りしには非ざる也。考えるに同書に天富命 更求㓇壌分阿波斎部率往東土播殖麻殻云云 阿波忌部所居使名安房郡(今安房国云云也)と同朝に富国の忌部氏を東土に分け住めせし事あり彼れ安房国阿波国にて言語の上同称なり…

古代において阿波忌部の祖神である天日鷲命の古跡が残る阿波国に、なぜ神武天皇と帯同して天富命が来るのか?(安房国から阿波国を開拓する動きについて)阿波国から分けた安房国から来たことを忌部広成が知らなかっただけだという内容です。明治期にもこのような事実を掴んでいた人物が存在したということですね。(詳しくは下記のリンクで↓↓↓)

しかもこの古書を記しているのは、上一宮大粟神社 大宜都比売命を崇拝する氏子なのです。当時の状況では一宮大明神の氏子は、高越大権現 天日鷲命を崇拝する氏子と仲違いする関係でした。そのような関係があるにも関わらず、太古は天日鷲命大麻比古神、大宜都比売命の三神により阿波国経営を示し、粟国、長国、そして忌部国による阿波経営を表しているものを許与しているのは、これを裏付ける伝承と証拠が存在し、確固たる自信があったほか考えられません。

awa-otokoも大宜都比売命天日鷲命とスポットを当ててきて、まぁまぁそこそこの証拠を提供したつもりなのですが、未だにまとまっていないのが大麻比古神。awa-otokoは大麻比古神=猿田彦神として絶賛推していましたが、これだ‼︎ という確証を得られていないのが現状です。

上記の過去記事には長国祖神である御間都比古神社に猿田彦大神宮を相殿した記録あり)

f:id:awa-otoko:20171210003643j:image(阿波の猿田彦は別の側面としてナガなのか… )

おっと、古語拾遺から話が逸れてしまいました。

今回「古語拾遺」を偽書として取り扱ったような題名にしてしまいましたがそうではなくて、あくまで安房と阿波の関係を忌部広成が知らなかったという指摘ですのでご注意下さい。

少しずつですが忌部氏についてわかってきましたね。現状注意すべきところは忌部氏というカテゴリーを広く捉え過ぎているということ。細分化して調査を進める必要がありますよね。

じゃ、今回はこのへんで。(・∀・)