神功皇后の名残り(宇弥宮、住吉大明神、住吉神社)
神功皇后に絡むテーマはこれで二回目の投稿。多分に被るところがありますが平にご容赦を。(^_^;)
それではサクサクと話を進めていきましょう。(^O^)
神功皇后は神の教えた財宝の国を求めようとして、自らが神主と為り、先の日に天皇に教えた神は誰か、其の名を知りたいと言ったところ、七日七夜たってから答えた。
⚫︎伊勢の五十鈴宮の神(天照大神)
⚫︎淡(あわ)郡に居る神(建布都神)
⚫︎厳事代主神(いつのことしろぬしのかみ)
⚫︎住吉三神
であると、その名をあらわした。(神功皇后摂政前期(日本書紀 仲哀天皇九年二月-三月条))
その後、神功皇后は朝鮮半島へ遠征(百済討伐)し大勝。お産が近づいたために急いで倭(阿波)へ帰国しました。
宍喰、鞆浦(ともうら)地方に現在も残る「赫舟の行事」は神功皇后の凱旋の行事がそのまま残ったもので、当地に赫舟を引き出して町中を大暴れするお祭りです。(※ 赫舟:皇統にある王族のみ使用できる舟)
まず、帰りついた海城(あまぎ)は、以乃津(いのつ)の加茂奈(かもな:眉山麓の加茂名町)。
ちなみに「宇弥宮」の西山の中腹に「高良神社」の元宮がありました。これは「武内宿禰殯宮」と云われており、終戦時まではこの地を四十三聯隊が所有地とし、戦況が不利になると御陵の上に堂を建立して人々に参拝を求めたそうです。
そのほか、神功皇后の宮は「天石門別豊玉比賣宮」の接社として以乃津 城山山頂に鎮座していましたが、蜂須賀氏が山頂に築城する際に城山鎮守として北の須島に移遷されました。それが現在の住吉町。昔は島で住吉島と呼ばました。
神功皇后の殯宮は「川内の長江の恵賀(現在の藍住町 住吉大明神社地)」にありましたが、その後に大倭に移し奉り、その後に建立されたのが現在の「藍住町 住吉神社」です。もちろん摂津国の住吉大社はここの分祀であり、八十島の祭りを行う際に西の海上からお迎えをするのは倭(阿波)から神功皇后の御魂を迎えするためなのです。