武内宿祢の屋敷と造船所(上板町 舟ノ本、矢武八幡神社)
大山村 西分字池田に古来船の本と稱し、船の如き形を為せる土地(三畝十二歩)あり、雑草繁茂するも若し鍬を入れる時は神罰が蒙るべしとて其ままに在置しあり。口碑傅ふる處によれば山城男山八幡宮の山下に武内大臣の社あり、船の形に擬して作れり、船の本また之に做うて作れるものなるべく、此地武内宿禰の舊領なれば其遺址を存せるならむと。其附近また松の本 綱の本の本等点々存在せり。(阿波名勝案内より)
以前に投稿した「武内宿禰は尊称」で少しだけ紹介した「矢武八幡神社」。
この「矢武八幡神社」は武内宿禰の屋敷跡という伝承が残されています。
そしてその附近にある上板町「舟ノ本」。今回は「舟の本」のお話です。
この「舟ノ本」。口伝のほかにも「武内宿禰の領地である」と明治に出版された阿波のガイドブック「阿波名勝案内」で堂々と紹介されています。
これを見た人はなんで海人族の武内宿禰が大山にほど近い場所に領地なんか… とお考えでしょう。
これは以前書かせて貰いましたが、古代は現在の水位より5〜7㍍ほど高かった。よって古代では上板町〜板野町西部は海の滸。
だからイルカも登場する気比神社も板野町に鎮座しているのです。(よかったら読んでみて下さい)
おさらいも含めて古代の水位で「舟ノ本」周辺の地図をみてみましょう。
ちょっとわかりにくいですがピンク色のサークルの周辺が「舟ノ本」。
安易な考えですが、この立地条件から私は武内宿禰が舟を造らせた場所がこの「舟の本」の地ではないのかと考えました。
舟の材料になる木材は背後の大山から伐採。そして必要な時にすぐ降ろすことが可能で、舟が完成したらすぐ目の前の海へ着水することができる抜群の場所なのです。
ちなみに付近に残る他の地名、「松の本」は港の灯台のように目印にした場所。「綱の本」は舟を着水、または上陸させるために舟を引っ張る綱をひいた場所の名残りなのではないでしょうか。
そして地図の範囲を広げてみると…
ピンクのサークルが「舟ノ本」。(武内宿禰の屋敷と造船所)
グリーンのサークルが「高良(甲羅)峯」。(武内宿禰の御陵)
イエローのサークルが神功皇后ゆかりの「産(海)の宮」。
ちょうど「高良峯」「産宮」は沿岸にあたり、「高良峯」からは自らの領地である大山の麓が見渡せるような位置に配置されているのです。
まとめてみますと、武内宿禰の屋敷(舟ノ本)から舟を出し、沿岸部に沿って長国(那賀郡)の海へ出て九州外側に回って朝鮮半島に行ったのではないかということですね。(またの機会で長国(那賀)での武内宿禰の痕跡を投稿します)
今回はこれくらいですが、写真が少ないので矢武八幡神社の美しい社殿と地神塔などなどをオマケで掲載しときます。
いやぁ… ほんと矢武八幡神社付近、調べたら面白いっす。