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阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

笥飯宮(板野町 気比神社)

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板野郡板野町中久保に鎮座します気比神社。
祭神は仲哀天皇日本武尊の第二皇子)「足仲彦天皇(たらしなかつひこすめらみこと)」
 
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日本書紀仲哀天皇二年二月条に、「角鹿(つぬが)に幸す。即ち行宮(かりみや)を興てて居(ま)します。是を笥飯宮(けひのみや)と謂す」
笥飯宮(けひのみや)」から興った「気比大明神」こと「気比大神(けひのおおかみ)」は別名、「伊奢沙和気大神之命(いざさわけのみこと)」、「御食津大神(みけつのおおかみ)」とも呼ばれます。
 
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別称の「伊奢沙和気神」という神名の由来については、仲哀天皇神功皇后との皇子である「応神天皇」が気比大神と名前を交換し、「応神天皇」はもとの「伊奢沙和気」という名前から「誉田別(ほむたわけ)」に、「気比大神」は「誉田別」から伊奢沙和気大神」になったと伝わります。
かれ、建内宿禰命(タケシウチノスクネノミコト)、その太子(ヒツギノミコ)を率て、禊せむとして淡海(アフミ)また若狭国を経歴し時、高志の、前の敦賀(つるが)に仮宮を造りて坐さしめき。
ここに其地に坐す伊奢沙和気大神(イザサワケノオオカミ)の命、夜の夢に見えて、「吾が名を御子の御名に易へまく欲し」と云りたまひき。ここの言祷ぎて白さく、「恐し。命のまにまに易へ奉らむ」とまをしき。またその神詔りたまはく、「明日の旦、浜に幸すべし。名を易へし幣献らむ」とのりたまひき。
「建内宿禰武内宿禰)」は「誉田別皇子」を連れて禊をしようと角鹿(つぬが)に仮宮を建てて滞在していました。
 
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板野町内のつるが)
 
通説では角鹿(つぬが)を福井県敦賀(つるが)としております。
しかし阿波 板野郡板野町内に「鶴ヶ須(つるがす)」という地名があり、気比神社の鎮座地より旧吉野川を遡った北東に位置することから「つぬが」が「つるが」になったと思われます。
また吉野川本流を挟んだ石井町には「高志(たかし)」の地名も残りますので、古代では板野郡範囲を若狭と呼んでいたのかも。

建御名方神と沼河一族 - awa-otoko’s blog

 
その「つぬが(板野町 鶴ヶ須)に坐す(坐した思われる)「伊奢沙和気大神之命」は建内宿禰の夢枕に立ち、「わたしの名前をその御子の名前と変えたい。」とおっしゃった。
 
それを聞いた建内宿禰も「畏れ多いことです。仰せの通りに名前を交換しましょう。」と承諾。
 
すると神は「明朝に浜に出よ。名を交換した「しるし」を与える」と伝えたのでした。
 
そこで翌日、御子が浜に行くと、鼻の傷ついた海豚(イルカ?アザラシ?)が現れた。
それを見た御子が「我に御食(みけ)を下さった」と言い、そのことから神を「御食津大神(みけつおおかみ)と名付けた。
 
 
近くには応神天皇所縁の応神町(別宮八幡神社)があり、古代は海岸で港があったであろう気比神社周辺。
 
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気比大神は風の神という側面もあり、風の神は海に生きる航海民にとっても重要な神。
気比神社祭神である「仲哀天皇」の諡号が「足仲彦天皇(たらしなかつひこすめらみこと)」であることから海人族であったことがわかります。
 
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この気比神社が鎮座する板野郡板野町中久保は古代は海岸だったんですね。
 
後世に阿波から都を移した際に気比神社は福井県敦賀市に移遷されたと考えています。