出自の秘密(木屋平に隠された秘密)
寿永二年、阿波民部成良の頼りによって麻植内山の奥に丸木の御所を造営して安徳帝を隠匿した…
以前に投稿した阿波民部成良と忌部大宮司 麻植氏が画策した安徳帝隠匿の話には続きがある。
安徳帝の守護は忌部麻植大領である麻植邦光が受けて帝は平穏な日々を送り成長を遂げた。帝は麻植正高の姫を奉るまでに成長、のちに皇子も誕生した。出生した皇子は麻植正高の末子と流布し両者の出自を隠匿した。
安徳帝は皇族であり平家、そして忌部大宮司家 麻植氏の血を分けた跡継ぎを出生させたということから隠遁する必要が薄らいだのか、または皇子を麻植氏の人間とすることが密約となっていたかは定かではないが、三十一才の時に義法坊という僧を連れて備前国と肥後国に赴かせた伝わっている。これは九州の尾形氏、原田氏に故あって引き合わせるのが理由であったという。
そして数年後帝は身元を明かすことなく崩御された。
平家一門からは平国盛、小松三位直盛が一寺を建立し安徳帝を神霊として祭祀した。(この時、麻植氏は平家として木屋平と祖谷に分かれたと思われる。)この両御所の子孫が麻山に上り、表は麻植氏の一族と唱え、帝の皇子は猪内氏と改めて北山奥に住したという。
是皆 “麻植氏一族” なり。
この麻植一族は後に小屋平と改め平国盛御子は阿佐氏、直盛の御子は松永氏と改め、麻植氏一族は何障りもなく目出度く栄たのである。
安徳帝の “皇子の御剣” は、麻植内山の奥石立山神社に奉納され後には御剣ノ宮と称され奉祭し、其の式は内裏古例を用いて退転ナシとされている。
最後にawa-otokoの独り言。
安徳帝に関わる平家一門が木屋平や祖谷で安息の日々を送れたのも忌部大宮司家 麻植氏の計らいがあってのこと。
忌部氏とは何をもってして忌部氏と認識するのか。古より阿波忌部直系氏人の御殿人(みあらかんど)は、なにも三木家に固定化されていた訳ではなかったであろう。
表だけをみて判断してはいけない。表があれば裏もある。三木より古い真の忌部直系の裔は木屋平に存在するのである。