友内山は高千穂神山
友内大権現は旧郷社であり神饌幣帛料供社。創建年代不詳。友内山一名木綿麻山の頂上の近く、阿波忌部の祖神 天日鷲命を祀り古くから山岳信仰の対象とされてきた。中世には阿波守護小笠原氏や細川氏の崇敬社となり、藩政時代は友内大権現と称した。のちに友落神社と称して貞光川筋の一宇・端山・貞光三カ町村を代表する神社として明治八年郷社に列せられた。
(貞光町 友内神社)
社名の友落に因んで徴兵避け祈願が盛んとなったことで、当時微兵執行官の美馬郡町の命令により明治二十三年 友内神社の旧称に改称した。徴兵避けの神が軍神に転化して日露戦争や太平洋戦争には武運長久を祈る参拝者が後を絶たなかったという。聞くところによると当山のほとんどが神社の境内地といわれている。
はい。もともとは木綿麻山(ゆうまやま)であった友内山(ともおつやま)。「ゆうま」を「友内」とあてたので、「ともうち」と呼ばれ、これが「ともおち:友落」となり、「友内」に落ちついたのです。(よって友内山と書いても呼び名は「ともおちやま(ともおっつぁん)」。)
さて、前置きを説明したところで、当記事をせっかく閲覧して頂いているので興味深い内容をひとつ挙げてみましょう。
友内山こと木綿麻山は、その昔「高千穂神山」とも呼ばれていたそうなんです。
(友内山山頂の奥社 高千穂神社)
これにより山頂の祠(友内神社の奥社)は「高千穂神社」と呼ばれています。その社を山麓に降ろしたのが現在の友内神社です。なので「友内神社=高千穂神社」と考えても何の問題もありません。(「友内山=高千穂神山」も然り。)
さらにあのぐーたら氏が、友内山の真北に位置する児宮神社を天児屋命の降臨の地であると「阿波の忌部」や「神道五部書」より考証しております。
ぐーたら気延日記(重箱の隅): 備忘録:つるぎ町貞光「児宮神社」
(awa-otokoも以前、児宮神社に参拝してました。)
(今回のぐーたら氏の考証にある藤原氏に忌部の血を入れた内容を確認して、これまでの考え方を改めないといけないと感じました。)
それでは友内神社の話に戻しますね。
驚くことに友内神社の鳥居前には通説では考えられない建造物が存在していたのです。
それは…
どんっ!「藤原家代々霊神」。
本来、天日鷲命を主祭神として祭祀されていた友内神社に忌部氏系ではなく、藤原氏が祀られているのが意味不明となるところ。しかし、ぐーたら氏の麻植氏の記事、児宮の記事にある背景を当てはめれば、すんなり納得できるのではないでしょうか。
総括すると、、、
「美馬(端山)には天児屋命」、「麻植(山崎)には天日鷲命」の二神が降臨した。それぞれ二神は忌部神として一括りにされたまま現在に至っている。(それ故、「忌部神社社地騒動」が勃発したと言える。)
また、今回の投稿内容について神名は違いますが、かの大杉博氏が提唱した以下の説がございます。(昔はこれを見て心を踊らせたものです。)
(友内山 山頂付近にある看板:ここにも高千穂神山とあります。)
友内山は「三里四方の霊地」の中心的な山で、木綿麻山・宮内山・木綿内山・忌部山・連台山などと呼ばれた。この山が「古事記」や「日本書紀」に書かれている本当の高千穂山であり、剣山(高天原の中心)を出発したニニギノミコトは、葦原中国を目指して峰伝いに降りて来られ、友内山(高千穂山)へ到着された。更にニニギノミコトは膂宍の空国(梶山峠付近)を通って中の宮へ至り、御崎神社の所に本宮を造られた。また、ニニギノミコトの子 ヒコホホデノミコトは川見に高千穂宮を造られたという。
この説のニニギノミコトの部分を天児屋命を当てはめてみれば、ぐーたら氏の考証、それに乗ったawa-otoko友内山(高千穂神山)に天児屋命降臨説も信憑性を増すのではないでしょうか。なんかいいとこ取りしているようで胸が苦しくなってきた。
最期に。
神道五部書でも相殿で祭祀されている天児屋命と天日鷲命。このニ神はどこから来たか?
上の大杉説の内容と今迄awa-otokoが提唱していた内容を思い出して下さい。(今迄ブレていた忌部大神宮の所在地がやっと固まりました。)
それは剣山にある!!
(剣山本宮宝蔵石神社)
(剣山大剣神社)
天児屋命と天日鷲命が坐した原初の忌部大神宮こそ「剣山本宮(もしくは大剣神社)」。(剣山の麓、木屋平の「コヤ」も天児屋命の「コヤ」である可能性… )
そしてその剣山で祭祀され続けているのが「剣山大権現」こと「素戔嗚命」… まだまだこのストーリーは壮大になりそうです。(つづく。)