安徳天皇を追いかけた女たち
コロナウイルス感染拡大による不要不急の外出自粛要請が全国的に発令されていましたが如何お過ごしでしょうか。今回は安徳帝と関わりがある女たちにスポットをあててみました。(というか書きかけデータをずっと残していたため今回消化するのが目的。)それでは進めます。
【❶.建礼門院徳子】
まずは建礼門院ととりまきの女達。(建礼門院徳子の詳しいことはwikiで見てくださいな。)平徳子 - Wikipedia
寿永四年、屋島の戦いで脆くも敗れた宗盛以下の平家一門は西国さして落ち延び、勢力を盛り返そうとしましたが、長門国壇ノ浦の戦いにとどめをさされ幼帝安徳天皇は二位尼の懐中に抱かれて御剣と共に入水せられました。しかし入水した安徳天皇は替え玉であり、本物の安徳天皇は忌部大宮司家 麻植氏の手引きにより阿波国の忌部郷に落ち延びていたのであります。(諸説あり。)
建礼門院徳子も二位尼と安徳帝を追って入水した(かのようにみせた)けれども、源氏の兵に舟にあげられて命をとりとめました。そして京都で出家して余生を過ごしたとありますが、実は阿波の三野町大字太刀野 吉野川段丘沿いの竹藪に建礼門院の墓と伝わる二尺程の五輪塔が存在します。この場所は以前から確認していましたが国道から近いので行く気になったらいつでも行けると思って安定の行かずじまい。最近国道の側に駐車してDASHで確認してきたのでした。
ちょっと見にくいけど建礼門院の五輪塔の看板。国道沿いに大きな看板があるのでわかりやすいです。
建礼門院とは、平清盛の次女「平徳子」の称号。徳子は、承安2年(1172年)高倉天皇の中宮になり、治承2年(1178年)、後の安徳天皇を生み、寿永2年(1183年)7月の平家都落ちには幼帝安徳天皇とともに同行、元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦(下関市)の海戦で入水、助けられて帰京の後は、吉田野津御所などを経て、大原寂光院(左京区大原草生町)に移って仏に仕え、建保元年(1213年)、12月13日、享年60歳を以てその生涯を全うしたこととなっている。
しかしながら、壇ノ浦(下関市)の源氏と平氏の海戦で、御生母建礼門院徳子とともに入水したと伝承される安徳天皇は、替え玉であって、実の安徳天皇は屋島の合戦に敗れて瀬戸内海を西走する一行から離れ、平国盛(教経)に伴われて海上を東に向かい、香川県の引田に上陸して讃岐山脈を西に向かい三野町と琴南町の県境「大川山(1042m)」を経て、三野町の馬瓶集落に下り、河内谷川沿いの川又集落を経て吉野川の北岸、ここ三野町太刀野に至り、さらに吉野川を南岸に渡り、二手に分かれて三加茂町の鍛治屋敷から加茂谷をさかのぼったり、井川町の井内容を遡上したりして四国山脈に分け入り、寒峰の鞍部を通って、秘境祖谷地方の大枝名に落ち延びたといわれる。
建礼門院徳子とて、幼帝安徳天皇を案じ、京にはいたたまれず、替え玉を残し、女官とともに安徳天皇の後を追ってここ三野町太刀野に至ったが、吉野川の洪水に渡川を阻まれているうち不幸にもご逝去、この地に葬られる。一方、安徳天皇も秘境祖谷の地において無念にも崩御され、火葬に付されたのである。
平国盛(教経)らは、安徳天皇の御生母建礼門院徳子が眠っておられるお近くに帝の分霊を御祀りするべくここ三野町太刀野の地に到着、近くの松尾神社を仮の御奉安所とし、後に、背後の高台にささやかな陵(みささぎ)を築造安置して、ここに安徳天皇及び御生母の御安寧するところとなったと伝承され、村民心底から厚く御霊を崇拝し今日までの800余年間ひそやかに、しかし、我が子を思う慈母の証として守護信奉し至ったのである。
平成の今日、我が国の平家琵琶演奏第一人者上原まり氏も参拝されるなど平家落人伝説を思慕する大方の要望に応えるべく太刀野老人クラブのボランティアによって参道及び周辺を整備するとともに案内板及び「由緒」を建之し、以て安徳帝及び建礼門院の御平安を祈念し奉る次第である。
この五輪塔は吉野川の孤島であった「沖の森」から移したと云われており、古文書によれば屋島の戦いに敗れた平家の一部は「讃岐国白鳥を経て、阿讃国境を峰伝いに越え、大山に出で…」とあり、太刀野山から吉野川を渡り祖谷から剣山に至ったと考えられています。
また解説板にもありますが、元暦二年卯月に安徳帝を案じて建礼門院は三野町太刀野の舟戸までたどり着きましたが、吉野川の大水で阻まれて渡ることができずに太刀野の通称 泉の佐古に庵を結んで一生を終えたと伝えられています。(朱記にある地名より当地が如何に吉野川に接近した場所であったのかが推測できます。そして大水はずっと大水のままではないのでそこが怪しい。)
余談ですが、昭和のはじめに吉野川南岸の三庄町で笄(こうがい:櫛(くし)みたいなもん。)と思われる純金製の金具に建礼門院と彫られたものを畑の中で拾った記録が残ります。拾った笄は土地の祠に祀っていましたが、いつの間にか盗まれてしまったそうです。
建礼門院は吉野川を渡れずとのことでしたが、建礼門院の命を受けた阿波の局他四名の女官達に錦の着物を携えさせ安徳帝の後を追わせたそう。厳しい山越えを断念した建礼門院は自らの笄を追手に携えさせ我が子に安否の印を渡すことを委ねたのかもしれませんね。(当時の便宜上なのか建礼門院が吉野川を渡っていないことをやたらと強調しているのが引っかかります。)
【❷.朧の御方】
さて、ここから大太子神社の伝承へ移行します。大太子神社は貞光町から剣山方面へ進み、一宇を経由して途中木屋平方面へ向かう山中に鎮座している神社です。ここにも大きな看板が掲示されているので気をつけていれば通り過ぎてしまうということはないでしょう。
大田石の伝承では文治元年、建礼門院徳子と妹の朧の御方(注: 朧の御方では情報がありません。廊御方が同人の可能性がありますが、ここは伝承通りに朧の御方で進めます。)は長門ノ国の壇ノ浦で身を投げたが源氏の船に引き上げられ命を存え、先に逃れていた安徳天皇の安否を確認すべく、朧の御方はお付きの女官と共に祖谷を目指しました。しかし当地で精魂尽き果て、和歌を一首朗詠して石に錦を敷いてその上で自害したとされています。(三野町の建礼門院の墓での由来と多少異なり、建礼門院の妹である朧の御方が安徳天皇の探索にあたったとされています。)
朧の御方とお付きの女官達は、「 風とどけ 想いを帝に逢田意思(おうたいし)果つる名残りは 都恋しそ 」の辞世の句を詠み、安徳天皇に逢うたと思い込み自害をして果てたとされているのですが、、、実は安徳天皇と再会したという伝承も同じく残されているのです。再会した石「逢うた石」が近世まで存在していて、これが当社「王太子(おうたいし)」の由来となっているのですから。
この内容からawa-otokoが推測するに三野町から大太子神社まではゆっくり歩いても三日から五日の間で到達する距離であり、馬を使えばさらに早く到達することが可能。時期が冬季でなければ積雪量に問題がない場所です。よって、木屋平(もしくは祖谷)に潜伏していた安徳天皇(の側近)と建礼門院(の側近)が事前に示し合せて当地で落ち合い、気持ちを句にして伝えたものではないかと考えるのです(確証はないですが建礼門院当人が当地に訪ねたことも可能性としてアリだと思います。そもそも建礼門院が京から阿波に降ったとして、その行程を考えれば三野町から貞光一宇までは容易な行程です。)
さて、里人は朧の御方のほか四名の女官を剣山末社 太田石五社大明神の祭人としておりおります。また、大田石神社本殿にては天照大神ほか、忌部祖神である天太玉命を祭祀しています。これを建礼門院徳子の繋がりから深く掘り下げて考えれば、あのお方の関与を想像するのは難しいことではございません。
そのお方とは、、、
阿波内侍(あわのないし)。
【❸.阿波内侍】
阿波内侍は冒頭で紹介した建礼門院徳子に仕えた女官であり、のちに崇徳院の妃となるこの女性は大きな秘密を抱えて出生したのでした。
阿波ノ内侍は藤原信西の女なれども母は阿波忌部大祭主麻植正光の娘たるに阿波内侍と云天皇讃州白峯にて崩御の後よつて天皇の志を汲んてだいに憤り法体して天円法師の弟子となり内心には天皇の恨有悪人を蹴殺し玉へと、天竜八部を始め日本国中の霊神に祈りけれども表は天皇菩提の為と被露しければ当今の帝□之一宇ノ堂を創立して内侍尼を置奉る其後崇徳院の神霊内裏に現れ御身に仇をなせし人々皆恐怖し遂に悪死しければ天皇の罪なき事は顕はれ宇治禅閣忠実公の所為なりと世には云触らしけるを内侍尼聞賜ひ大に喜ひ我祷る所の願望被に勝ちたりと其堂を願勝寺と号す
阿波内侍は母方が麻植氏の血筋であったことを含めて数奇な運命に翻弄された女性でありました。崇徳院の無念を晴らすべく表向きは祈りとし、内心は崇徳院の恨みある人達への呪詛を送ることを生きがいとしていたことがみて取れます。阿波内侍が名付けた願勝寺の名の由来もご覧の通りですから。(上記引用 緑文字を参照)
と、いうことで源平合戦に敗れた平家一門と最後の頼みであった安徳天皇は阿波忌部大宮司家麻植氏の手引きで阿波国忌部郷に匿われ、その安徳天皇を追った平家の女たちもまた忌部大宮司家との不思議な縁の繋がりから導かれた因縁であったと言わざるをえません。もしかすると、この一世一代の大博打 安徳天皇替え玉事件はこの女たちが裏で暗躍したのではないか...
行き過ぎた予想はこれぐらいしておきましょうか。やっと放置していた書きかけデータも文にし終わったので今回はここでキーボードを打つのを止めます。また気が向いたら投稿します。ではまた。(о´∀`о)