劔の山 不動明王スサノヲ伝説
剣山の明神は、木屋平の龍光寺と祖谷の圓福寺両別當の相持ちにて社も大剣小剣の二に分れたり。村人は此神を安徳天皇の御剣なりと云傳ふれど、正しくは忌部神なるべし。さて此剣山の祭禮に山村の女子が白粉をよろほひて、其の上に紅を以つて額又頬に十の字を書く、これは未だ婚せざる標とす。又神事にあつかる婦女は、す字を書く。上古よりの習俗なるべし。其故を知らず。
まだまだ謎が多い剣山。山津波が発生する以前は表参道であった垢離取より藤の池 龍光寺に続く剣山の古道を登山してきました。今回は阿波名勝案内に記された内容に沿って説明したいと思います。
阿波第一の峻嶺にして海抜六千四百五十二尺あり、本郡木屋平及び美馬郡東祖谷山両村に跨る、山嶺剣祠あり素戔嗚命を祀り四方篤信の徒少なからず、日本の名山霊區として人口に瞺炙す、山麓木屋平龍光寺(當山本寺)より登らむには、木屋平川に沿うて進むべく、五十餘町にして一の行場あり鬼淵と云ふ
(行場であった魔鬼淵。槙渕神社)
岩石峨々として樹木蕃生す、岩下に深淵あり不動明王を安置す猶登ること十八町にして漸やく山脚に達す、垢離取川あり長さ十五間の鞘穚を架す、岩上に不動の尊像あり瀬登り不動と云ふ、また役の行者の像あり、之より十八町の坂路殊に嶮峻を極め樹木また蓊鬱たり久利伽羅坂と云ふ
(垢離取川 元禊場)
(垢離取橋)
(垢離橋下)
(瀬上り不動尊。役の行者尊像は流されて現在は無し)
柴折行者経塚等あり、大師自ら築きし處の法華経一字一石の塚なりと傳ふ、猶二町を登りて一の原あり案内休場と云ふ、爰所にて参詣人を揃へ本山を拝す、これより五町にして藤の池に達す古りたる木立の中宏壯なる堂宇あり剣山の前神は是なり、昔安徳帝行在の砌陣営に用ひ給ひし事あり故に藤の池陣屋とも云ふなりと、参詣者必ず此に宿す
(藤の池 龍光寺:陣屋)
(龍光寺正面)
(龍光寺側面)
(剱山本宮剱神社富士ノ池本社)
これより熊笹の生茂れる嶮道一里餘を上りて一の森に達し、更に半里を登つて二の森を超え平家の馬場に達す、平斜の地見渡す限り根笹一面に生茂り恰 も青氈を布けるが如く、之よりお花畠に達するまでの間に立てる樹木は、烈風のために凡て其の半面枝なく奇観限り無し
(熊笹が生茂る登山道)
(一の森頂上)
(一の森神社:ヒュッテ横鎮座)
(阿波名勝案内に云われる平家の馬場。だと思う。)
(二の森神社)
お花畑は剣山の頂上にあり畸形の躑蠋を以て満たされ、春時花發するの時紅白の美花、根笹の間に点綴して其美言ふ可がらず、之を過れば巨石あり高さ五丈寶藏亭と曰ふ四望曠濶群峯下にあり培塿の如し
(剣山頂上)
(剣山本宮)
(寶藏石)
(寶藏亭から観る木屋平集落)
これより不動の獄、覗瀧、三十五社、蟻の徑、小剣神社、見合石刀掛松等を徑て剣神社に達す、乃ち仰いて神石の突兀として天空を摩するを見、伏して御敷水の混々として盡きざるを瞰めば、何物か天来の神秘下りて我に莅むあり
(不動の岩屋 不動明王)
(覗瀧:現在のお鎖場。たぶん。)
(お鎖場)
(行場 鶴の舞)
(両劍神社)
(両劍神社内)
(両劍神社御神体前)
(両劍神社御神体祭祀場)
(三十五社)
(刀掛けの松)
肅然として襟を正し懼然として惰容を改めしむ、傳へ云ふ神石其形に似たるを以つて山名に名くと、又曰祠中神刀を祀る因て名くと、この他氷の橋、苔の岩屋、安徳帝の遊戯し給ひしと云ふなるお花畑(前に記せるものと異り)西島の穴禅定等奇絶壮絶を極めざる無し
(大劍神社)
(神石正面)
(御敷水:御神水)
(神石側面)
小剣祠は數十丈の巨巌の下にあり、巌上嶮崚久しく立つ可からずと雖も眺望曠潤にして山海の勝を一眸の下に蔟む、當山は春秋雪を戴くを以つて夏季ならでは登山に堪へず、毎年七月中旬を以て剣社は祭典、龍光寺は法會を執行す
(藤の池 龍光寺 不動明王像)
はい。頂上から麓まで表立ちしないように不動明王が中心として祭祀されているように感じます。忌部祭祀や安徳帝をはじめとする平家伝説も途中から入ってきたものと考えられ、やはり原初の剣山信仰は宝剣の神石から。そしてその根底には不動明王ことスサノヲ信仰があったと考えられます。
(藤の池 龍光寺境内)
以前に投稿した剣山大権現縁起の内容と被りますが、聖徳太子、行基菩薩、役の行者、空海など歴史上の大人物が剣山に登拝していることが何より神威が大きかったことが伺えます。
とりあえず既出の情報を説明しても面白くないので片道一時間半かけて表参道を駆け上がった古道の状況をみて貰いましょう。
(参道の巨石)
(一定間隔で石門(巨石)が設置)
(一の森近くの磐座群)
(磐座群の中にある陰石)
藤の池 龍光寺から剣山頂上に続く昔の表参道は、古代の祭祀跡と考えられる場所が点在しており、awa-otokoが確認した状況では手付かずの場所がたくさんあるように見えました。古代神スサノヲ(不動明王)の祭祀を継承させた行基、弘法大師、役の行者。それらの古代から脈々と受け継がれ、修験者や山伏が歩いてこの藤の池の表参道を歩いていたのです。逆に見の越から剣山頂上までの昔の裏参道はかなり人の手が入っており、昔の風景を偲ぶのは難しいかと思います。藤の池の表参道を歩くのにはちょっとした脚力が必要ですが、日本史において活躍した者達が登拝に利用したスサノヲ信仰の路をゆっくりと歩いてみるのも良いと思いますよ。
さて、これからはこの剣山に祭祀されていたスサノヲが、どの素戔嗚命だったのか。また別の御名について調べていきたいと考えています。(答えがないのはわかっているんですけどね。( ;∀;) )