山崎忌部神社はどこから分祀されたのか⁈
忌部神社は神代に於いて石立山(剣山)に鎮祭して奥宮とし、更に衆庶の参拝の便を思って友内山に中宮を建立せるも、住民が次第に里分に移動するに及び次々と里宮を建立するに至った。従って端山の五所平は大宮司家の麻植氏が之を守護し、山崎なる天日鷲命神社は麻生氏、高越神社は早雲氏が夫々奉仕していたものである。
ちょっと前にFacebook投稿にて投稿した一説ですが実は続きがあったのです。せっかくですからブログの方ではきちんと掲載しておきますね。
忌部大神宮は三里四方の霊地を境内として造られた神社であり、麻植氏(忌部宿禰)が代々大祭主を勤め、オオヒルメ・オシホミミミコト・ニニギミコト・ヒコホホデミノミコト・ウガヤフキアエズノミコトの五柱の神々を祀っていたものである。
そもそも蜂須賀家が忌部氏系譜である早雲氏の建白により開始された地神塔による地鎮祭も忌部大神宮を隠匿した後ろめたさがあったからかもしれないですね。古より忌部大神宮で祭祀されていた本来の神を隠し、農業神五柱に置き換えて祭祀の浸透を図ったのではないでしょうか。
両森大神宮は天日鷲神と津咋見神の二柱祭祀。場所は… (上の写真文を読めば解ります‼︎)まさに三里四方の霊地のど真ん中ではありませんか。
実のところ山崎忌部神社は三里四方の霊地から分祀された分社なのであります。
ということは雀獄遺跡 浮島八幡神社の元社も…(awa-otokoは山崎忌部神社と浮島八幡神社元社は天日鷲神と津咋見神:両森大神宮の二柱が別々に祭祀されたという見解も別の説と併せて考えています。)
ふむふむ。だんだん剣山からの忌部ルートが見えてきましたね。全然勉強してない人ほど大嘗祭、大嘗祭言うている状態ですが、まず今回の内容を踏まえて調査を進めないと忌部氏の本質は見極められませんよね。(特に最近ネット検索だけの知ったかがSNSに投稿するので手に負えないですわ。苦笑)
その他にもまだまだ調査の結果を書きたいことは山積みではありますが、入力にそろそろ飽きてきたのでまた今度します。ではでは。
あ、言うときますけど今回のネタはエイプリルフールネタじゃねぇっすよ。(・∀・)