大宜都比売命からの御食
その昔、鳴門の大毛島の海岸一帯には「あしか」が生息していたという。今から三百年以上も前に阿波三代藩主である蜂須賀忠英公 寛永六年頃に、「あしか」と馬が交尾してこどもが生まれると水陸両用の名馬ができるという迷信から、鳴門 土佐泊浦大毛一円に限定して馬百頭を放し飼いにした。
以来明治四年頃迄馬を放し飼いを続けていたが、「あしか」と馬の恋愛関係は一度も成立せず失敗し、明治四年の廃藩置県と共に水陸両用の名馬を生産する計画は終わりを告げた。
その間にも馬一頭につき大豆何キロかの割合で藩主よりお下げ渡しがあったが上役から下役までの手を経るうちに少しずつ少なくなり、馬の口に入る大豆は僅かとなっていった。
空腹に耐えかねた馬達は食糧を求めて山野に入り込み、草や木の芽を喰い飢えを凌いでいたが、冬場には遠くに足を延ばすことにより柵を破って南の集落の野浦地区まで出没して畑作を食い荒らしはじめた。
困り果てた農民は訴願を重ね、藩もようやくその被害を認めることとなり野浦地区全体に石垣をめぐらして馬の行動範囲を狭めたが長年の月日を経て次々と壊れはじめ、畑を売り出す農民も現れたという。
今も野浦地区には「馬垣」の名残りが山裾の所々に残っている。海の「あしか」は今では近海でみることは出来ないが、明治三十五年ごろ迄は秋から冬にかけて鳴門の海に群居していたという。
この「あしか」が生息していた大毛島。大毛島の名前の由来は「大毛は大宜都比売命の名のおこれる所なるべし。」と伝承される大宜都比売命の泊であった場所なのです。
さぁ本題に移る前に思い出してみて下さい。板野町鎮座 気比神社の投稿の中での一節を引用しますと…
その「つぬが(板野町鶴ヶ須)に坐す「伊奢沙和気大神之命」は建内宿禰の夢枕に立ち、「わたしの名前をその御子の名前と変えたい。」とおっしゃった。
それを聞いた建内宿禰も「畏れ多いことです。仰せの通りに名前を交換しましょう。」と承諾した。
すると神は「明朝に浜に出よ。名を交換した「しるし」を与える」と伝えた。
そこで翌日、御子が浜に行くと、鼻の傷ついた海豚(あしか?、アザラシ?、イルカ?)が現れた。
それを見た御子が「我に御食(みけ)を下さった」と言い、そのことから神を「御食津大神(みけつおおかみ)と名付けた。
大宜都比売命の名の起これる大毛島より、「御食(みけ)」を賜わることになった。
すなわち大宜都比売命の遣わした御食:「あしか」が現れたということですかね。(これは神代の時代から応神天皇までは海獣を御食としていたということですよね?間違えてないよね?笑)
大毛海岸のすぐ目と鼻の先 淡路国は御食国とされ、旬料・節料として「雑魚」を贄として納めることが延喜式に記載されています。(雑魚って?何を指しているの?)
はい。当時の水位を再現したフルードマップを確認下さい。
なんということでしょう。
「あしか」が生息していた大毛島・ウチノウミから現在の吉野川流域に北は板野町、南は石井町まで海水が入り込んでいるではありませんか。
以上の地理条件から大毛島に生息していた「あしか」が現在の板野町気比神社付近まで入り込むことは多くあったはず⁈ なのですが…
、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、。
今回は大宜都比売命の御名から出た鳴門 大毛島の伝承と異彩を放つ気比神社の伝承を融合させてみましたが、、、ちょっと強引な展開だったかな。でも昔から大毛島に「あしか」が生息していたのは本当のようですよ。(ノ≧ڡ≦)てへぺろ