三里四方の忌部聖地たる証拠
(家賀鎮座 児宮神社)
阿波国麻植郡忌部郷吉良御所平に鎮座する忌部大社は四国の一宮、天日鷲尊祭祀の本社で神代から鎮座していると伝承されていました。その口伝と伝承を物的証拠と文章で証明しようとしたのが吉良御所平忌部神社文書であります。
裏に二神の神名が記された御神鏡、元享元年 大檀那 北条相模守 平朝臣高時が記された棟札、そして古文書。これらの神宝は蜂須賀氏により取り上げられたとあります。また空海直筆による「忌部大社」の鳥居扁額も蜂須賀氏により焼き捨てられたと記されています。
この蜂須賀による破壊行為については、蜂須賀氏が阿波入国の際に長曾我部元親による四国平定の折、破壊の限りを尽くされた忌部大社の三里四方の聖地を認知せず、さらには忌部大社復興の破壊工作(証拠隠滅)を行なったのではないかと考えられています。
上記では、由緒が残っていない山崎忌部神社は桁山忌部神社の棟札を持ってきて山崎忌部神社のものとして使用した悪巧みと書かれており、また自らが忌部郷家賀鎮座の児宮棟札に記載された大工から忌部郷の整合性を説いた内容です。
忌部郷家賀ニ鎮座 児宮棟札ノ寫
延喜式ニ忌部神社麻植郡鎮座ト有リ 又右ノ棟札ニ天日鷲尊四国一ノ宮ト有リ因テ聊カ疑フ可キ所ナキ吉良御所平忌部本社ノ棟ナリ因テ吉良御所平ハ往古麻植郡ニテ有リシ事棟札ニテモ判然タル確証也
児宮明應五年造営棟札ノ寫
忌部郷ニ鎮座ノ舊神社ニ往古ヨリ有ル児宮並白人宮両社ノ棟札ニ書戴有ル大工鍛治ハ渾テ皆其神社ニ有ル村里ノ者ニシテ悉ク忌部郷内ナリ因テ他郡又ハ外山ハ素ヨリ忌部内ノ村里ノ外他村他國ノ大工鍛治ノ姓名ヲ書戴シ棟札ハ一枚モナシ
麻植又ハ宇恵トモ児宮弘治ニ年造営棟札ノ寫
此明應五年再興児宮棟札ニ事者宇恵ト書戴有リ是即家賀城主忌部大宮司麻植氏直筆麻植郡ハ此麻植氏ノ姓ヨリ起リシ郡ナリ
児宮慶長六年造営棟札ノ寫
忌部郷穴吹山ニ鎮座天文ニ年再興棟札ノ寫此棟札ニ領家ト有リ是則忌部ノ領ナリ千野ハ穴吹山ノ地名ナリ鍛治ノ姓忌部ト有リ是ヲ見テモ穴吹村ノ忌部郷タル事判然タリ
讃岐国象頭山金毘羅神社天正十一年造営長曾我部宮内少輔秦元親寄附棟札之寫
吉良御所平忌部神社の棟札に国所を記載していないので証明にならないとあるが、讃岐国の大社である金毘羅神社にも書き記されていない。どういうことか?とあります。(出典原文まま書くのが面倒になってきたので訳しました。笑)
この文書を提出して請願し、一度は御所平忌部神社が忌部大社と認められたようです。しかし皆さんもご存知のように後年、忌部神社社地騒動が勃発します。結果は政府が喧嘩両成敗とし、二軒屋に忌部神社を造営して現在に至るのです。
改めてこの文書が必要とすることが近々あるかもしれませんのでちょっと先取りで掲載してみました。
端山、家賀 、御所平の友内山周辺エリア。この先要チェックになりそうです。