土佐国一宮ト阿波國一宮ハ夫妻之御神ナル可シ。
都佐國造モ粟國造ノ如ク女祖神ニ仕へ奉ル欤亦ハ都佐㘴神社ニ並ヒテ溝杭姫命之御社モ在ル可キニ未タ聞カズ同郡朝倉神社ニ后神天津羽羽神鎮リ㘴スヲ見レハ都佐國造ハ 味鉏高彦根神后神天津羽羽神夫妻 ニ神ヨリ出タル系也(天津羽羽神 三嶋溝杭姫命共ニ味鉏高彦根神之后神也。都佐國造ノ女祖神ハ羽羽神ニ㘴スヲ溝杭姫命モ同后神故ニ混シ誤リテ國造本記ニ溝杭命孫ト決テ出タル事也)
土佐に行ってまいりました。今回は土佐国一ノ宮 土佐神社、二ノ宮の朝倉神社のご紹介です。
(土佐神社)
(朝倉神社)
土佐神社は味鉏高彦根神、朝倉神社は天津羽羽神が祭祀されています。この二柱の神は夫婦神であり、阿波國に伝わる積羽八重事代主神と大宜都比売神の夫婦と同一神と考えられています。下記にある内容、これは大宜都比売命の裔である粟國造家(粟飯原家)の記録に残されているものです。
粟國造 都佐國造ハ同祖粟凡直長直モ基本一系ナリシヲ、属地ニ依テ粟凡直ニ分レテ異姓ヲ称スルナル可(べ)シ。天津羽羽神 阿波女神 同神(ニ)當(リ)阿波國十郡中麻植美馬三好等ノ三郡ヲ除キ残ル七郡ヨリ土佐國ヲカケテ皆本来人種ハ此神之氏人ナリ。八倉比賣大神ノ當國第一尊ク㘴ス事ヲ知ル可シ。土佐國一宮阿波国一宮ハ夫妻之御神也。
その昔、阿波国の一ノ宮だった天石門別八倉比賣神社。その祭神を八倉比賣命(大宜都比売命:天津羽羽神)とし、土佐神社の味鉏高彦根神は夫とされていた。その二柱の子孫が粟國造と土佐國造になったということですね。
それでは土佐神社から。
土左の郡。郡家の西のかた去(ゆ)くこと四里に土左の高賀茂の大社(おほやしろ)あり。その神の名(みな)を一言主の尊(みこと)とせり。その祖(みおや)は詳かにあらず。一説(あるつたへ)に曰はく、大穴六道の尊(おほあなむちのみこと)の子、味鉏高彦根の尊なりといふ。 『釈日本紀』所引『土佐国風土記』逸文より
んー、味鉏高彦根神なのか、一言主神なのか… 事代主は摂社に追いやられているし… 土佐神社の祭神については今後の課題としておきます。。。(awa-otokoは味鉏高彦根神が事代主という役職を担っていたのではないかと考えています。)
(厳島神社)
(神明宮)
参考になるかどうかはわかりませんが、土佐神社では8月24日・25日に行われる例祭として行われる「志那禰祭」があります。これは「土佐三大祭」の1つに数えられ、古くは旧暦7月3日に行われていたそうです。
「しなね」の語源は、風神の「シナツヒコ(級長津彦神/志那都比古神)」に基づくとする説、新稲祭(新嘗祭)の「新稲」の転訛とする説など諸説がある。志那禰祭は天平宝字3年(759年)に始まるといい、別名を「御船遊び」といって古代には鳴無神社(須崎市浦ノ内東分)まで御座船で海上神幸を行なったとされる。この海上神幸の存在から、土佐神社が古くは水上交通を掌握していたとする説もある。しかし海難や赤木山(現・青龍寺)の山犬に襲われることがあったので、五台山北麓に御旅所(現・土佐神社離宮:小一宮)を建ててそこまでの船渡御と変わったという。その渡御も、明治13年(1880年)に建てられた現在の一本松御旅所までの徒歩神幸と改まり、現在に至っている。(Wikipediaより)
やはり摂社をみても、土佐神社は阿波国と同じようにいろいろな神が合わさって原初のものがわからなくなっているようですね。
awa-otokoが土佐神社を参拝して感じた印象は、屈強で武骨なモノノフのような男神を中心に小さい女神達が取り囲んでいる。そんな雰囲気の境内でした。
次に朝倉神社。
土左の郡。朝倉の郷あり。郷の中に社あり。神の名は天津羽々の神なり。天の石帆別(いはほわけ)の神、今の天の石門別(いはとわけ)の神の子なり。『釈日本紀』所引『土佐国風土記』逸文より
天津羽羽神は天石門別の神の子とあります。これは天の岩戸を開けた手力男命の子である大宜都比売命と同じですね。
創建は不詳。朝倉神社に関しては古くから「日本書紀」の斉明天皇西征伝説に比定する説も存在します。日本書紀斉明天皇7年(661年)条によれば、天皇は百済救援のため難波宮を出て西征し、伊予熟田津、娜大津を経て朝倉橘広庭宮に移ったといい、朝倉宮の造営には「朝倉社」の木を使用したといいます。(伊予から阿波にひっぱってきて西照(西のアマテラスになったかならないかは不明。)
そして朝倉神社後背の赤鬼山(あかぎやま)の木を切って山麓に営んだのが、その朝倉宮であるとしており、天皇の死後、赤鬼山の神である天津羽羽神を祀る社殿に天皇の霊を合祀したと伝える説も存在します。
以上の伝説の真偽は明らかではないとしながらも、朝倉神社後背の赤鬼山は神の籠もる山(神奈備)として古代祭祀の信仰対象であったと考えられています。(朝倉は麻の倉。赤木山は麻城山の転訛か?)
赤鬼山の中腹からは弥生時代中期の土器が発見されているほか、南麓には古墳時代後期の朝倉古墳があり、朝倉神社の存在はこの赤鬼山を中心に成長した豪族に対比されるのであります。
朝倉神社は物静かな境内ですが、本殿裏にまわればちょっとピリピリした厳しい雰囲気が漂っていました。(向かって右に稲荷がいるから?)神殿側壁の絵柄も美しく、土佐国の地母神となっている天津羽羽神の物静かながら威厳があるイメージにぴったりな神社でした。
という訳で、土佐國造一族と粟國造一族は同族… かどうかは参拝しただけではわかる筈もなく、awa-otokoの中では可能性としてはあるということで留まっています。ただ、積羽八重事代主神と大宜都比売命(を祖とする一族)は阿波国だけでは収まらずに四国一円、さらには全国津々浦々に神名を変えながらも往き来していたということは間違いありません。
また、この土佐国を代表するニ社だけの内容では解明できませんので他の土佐国古社を含めて検証する必要があります。今回は土佐国の文献を調査していないので踏み込んだ内容はありませんでしたが、土佐と阿波には古代からの深い深い繋がりはあります。それが浮き出てこないのは伝承された神名に罠がかけられているから。。。
今後の調査に期待!!(別の人の調査でな。)それでは。