阿波から奈良へ(大御和神社)
(文武天皇)
「高天の原に事始めて遠天皇祖(すめろぎ)の御世中今に至るまでに天皇(すめら)が御子のあれ坐(ま)さむ弥継(いやつ)ぎ継(つ)ぎに大八島国知さむ次(つぎて)と、天つ神の御子ながらも、天に坐(ま)す神の依(よ)さし奉(まつ)りに隨(まにま)に、聞(きこ)し看(め)し来る此の天つ日継高御座(ひつぎたかみくら)の業(わざ)」
まず、即位五年(七〇一年)に修理を終えたばかりである倭の高安城を廃し、舎屋その全てを河内、大倭(奈良)の両国に移動させています。
そして「続日本紀」慶雲元年(七〇四年)十一月条には、大倭の地に藤原の宮地を選定、さらには慶雲四年(七〇七年)、諸王や臣下で五位以上の人々を収集し、遷都の論議を行い、二月 九日に正式に大倭へ遷都することを決定したのであります。
徳島市国府町府中の式内社 大御和神社は神社拝殿上に「文武天皇(七〇二年)の御宇、この閤宮(こうのみや)より、国璽の印と国庫の鍵を差し出した」と記されています。(国璽の印とは国家の表章として押す宮印で、帝都が阿波にあったことを証明するもの)
(拝殿上の額)
慶雲元年には鍛冶師に命じて諸国の印をつくらせています。
諸国印は大宝律令後に倭(阿波)の地名からつけられた新しい国々の印に使用するためであります。
このようにして北倭(大倭:奈良)と南倭(倭:阿波)という二つの倭が存在することになったのです。
そして後に南北ニ倭が併合して「日本国」と改号したのはいうまでもありませんね。
おっと、、大切なことを言い忘れておりました。
今回、紹介した大御和神社はもともとは土成町の「奇玉(くすたま)神社(以前に紹介した薬王子神社こと)」から移されたとの説があります。
「奇玉(くすたま)」とは「奇魂(くしみたま)」。
この御所山の山麓に浦池に奇玉神社、またの名を「薬王子神社」が鎮座しております。これは過去に紹介したように御所山の頂にあったのです。