大田田根子一族の殯宮(段の塚穴)
石室の規模や特異な構造から、四国の古墳時代史上で欠かせない重要な古墳と認識されています。
太鼓塚古墳、棚塚古墳に共通してみられる特異な石室構造は、段の塚穴の2基のみでなく、旧美馬郡の範囲の古墳に共通してみられる特徴。
この石室は代表例の段の塚穴の名から「段の塚穴型石室」と分類されており、玄室の天井を斜めに持ち送り、玄室側壁を胴張りにし、玄室をドーム状にすることを特徴とします。
また、この型式の石室には奥壁に石棚をもつものが多くみられます。
【大田田根子 おおたたねこ】
記・紀にみえる伝承上の人物。
大物主神(おおものぬしのかみ)の子。三輪(みわ)氏の祖。崇神(すじん)天皇の代に疫病や災害がつづいたとき、天皇の夢にあらわれた大和(奈良県)の三輪山の大物主神のお告げにより大神(おおみわ)神社の神主となる。その結果、疫病がやんだといわれる。「古事記」では意富多多泥古命。
段の塚穴内部は古代に移動されているそうで、奥は積石壁になっていますが、この時代の古墳の最後部は平石の積壁で終わることは絶対にあり得ないそうです。
これは隙間を詰めていた赤土が風化で落ちたために現在は平石積が晒されているだけで、奥には空洞がある可能性が高いそうです。(なにっ!)
大神とは「大物大主神」を指し、祭主となった「大田田根子の祭祀場」と掌酒を分担した「活日の高橋邑」は近接していたことになりますが、「段の塚穴」の対岸 貞光川岸に「太田」と「高橋」の地名が並んで残っております。(その他「倭大国魂神社」の存在も大きい)
「大田田根子」は「大国主命」の五世孫とされ、崇神天皇は河内の美努村(ミノノムラ)から「大田田根子」を探し求めたとされます。ここの「河内の美努村」とは「三好郡美野郷」のことで、現在の三野町にあたります。
半田(ハンダ)は植田(ハニタ)が変化したもの。
これは陶器や埴輪、瓦をつくる邑の意味になります。
最後に…
段の塚穴型石室をもつ古墳は分布範囲がほぼ旧美馬郡に限られています。
このことから、この段の塚穴範囲に同族集団が居住していたことが想定でき、