吉良の御所 天日鷲命御馬を逗めさせ給ふ御古跡なり
美馬郡西端山に吉良の御所と云ふ所あり、上世に天日鷲命御馬を逗めさせ給ふ御古跡なりと云伝ふ、此の所に鈴生の梅(子重紅也)実なしの藤あり、馬が岡とて大なる龍馬石馬蹄石あり、又麻釜と云所ニ所あり、さて御魂所とて山上に二ヶ所一丈四方計の平石を敷て其のめぐりを大石を立連ねて囲みあり、又衣織の窟とて谷を隔て向かふなる厳牆の中ほどに広みたる窟あり、其の内にて忌部の神の織機を織らせ給ひしと云へり。
因云、大古忌部御祭事に馬を美しう粧ひて奉りしゆへに美馬郡と名づけ呼ぶとぞ。
美馬郡貞光町 西端山 吉良の「御所神社」こと「忌部大神宮」です。
昔は美馬郡の名の由来であるとも書かれていますね。
あと衣織の窟とか残されているのでしょうか。こちらの方は未確認です。
とりあえず境内の石碑の文です。
天日鷲命は、穀、麻を植え、製麻、製織の諸事を創始され、特に天照大御神が天岩戸にお隠れになった時、白和幣( しらにぎて)を作り神々と共に祈られ 天岩戸開きに大きな功績をあげられた。
その子孫は忌部氏と称し、中臣氏と 共に国家祭祀の礼典を司さどり、忌部氏は全国各地にあって、社会教化と神道の宣揚、文化の向上、産業の発展に貢 献していったのである。
阿波忌部氏は、古語拾遺によると、神武天皇の代に天富命が、その子孫を率いて、阿波に 下り 穀・麻の種を植え、此の郷土を開拓し 代々大嘗祭(天皇即位の大礼)に穀・麻を織った荒妙御衣(あらたえ みそ)を貢上した。
このように、天日鷲命を奉祭する忌部族即ち徳島県民の祖神を祭り、古来阿波の国の総鎮守の神 社として、朝野の尊崇篤く、平安時代の延喜式内社には 官幣大社に列せられ、名神祭の班幣に預る名神大社となり 、西国随一の格式の大社として四国一ノ宮と称せられた。
また、忌部神社の法楽として、法福寺が建立され、大社 の東西にも東福寺、西福寺が建てられた。そして、安和二(九六九)年には、摂社末社に十八坊を定め、後、寺の一 字に福をつけて忌部別当一八坊とした。
円福寺、浄福寺、悠福寺、金福寺、惣福寺、神福寺、冥福寺、地福寺、善福 寺、安福寺、万福寺、福王寺、長福寺、福田寺、福満寺に法福寺、東福寺、西福寺である。
当神社は、中世以降の 兵火、あるいは弾圧による社領の没収、御供料の廃絶により神社の呼称の改名することとなり、久しく社地の所在が 不明となったため、社地の論争の原因となった。
明治政府が発足し、祭政一致の制を復し神社を国家の宗祀としたた め、明治四(一八七一)年、忌部神社は国幣中社に列せられた。各地から社地の名のり出があり、明治七年十二月、 麻植郡山崎村が社地とされたが、明治十四年一月には当美馬郡西端山村吉良の御所平が忌部神社の所在地と定められ 、祭典が行われた。
しかし、論争が続くなか、明治十八年十一月名東郡富田浦町(現徳島市二軒屋町)に社地が変更 され、吉良の旧跡は摂社として、そのまま保持すべしとされた。 今度、徳島市へ遷宮百年を迎え、旧跡より東に、 二〇〇メートルの現地に遷宮して、幣殿、拝殿を新築したものである。
はい。内容にある忌部の聖蹟争いはとても面白い内容なんですが、今回はテーマ外なので触れません。
それより「天日鷲命御馬を逗めさせ給ふ御古跡」だけの理由で「四国の一宮」「大神宮」とまで呼ばれますか?
私は「吉良 忌部大神宮」は「天日鷲命の殯宮(もがりのみや)」ではないのかと考えました。
そしてこの秘密に迫るのにおいて、もう一つの注意点があること書いておきます。
それは「何代目の天日鷲命であるか」ということです。
わたくしにはまだまだ情報が不足しておりますので今回はここまで。
まぁ、こんな内容にとらわれずに真っ白な気持ちで「御所神社(忌部大神宮)」を見に行くことをお勧めします。
とてもとても素晴らしい景観の場所ですよ。