awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

端山は母山の義なり(その弐)

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はい〜。前回から端山付近について綴っております。続きでございます。

その前にトップの地図写真、アバウトな作りではありますが、なかなかよく見ると面白いのです。陵の位置が描いてあるだけではございません。まぁこの件は後ほど。

それでは本題を進めてまいりましょう!

f:id:awa-otoko:20171020084531j:image(絹織窟付近)

f:id:awa-otoko:20171020084727j:image(吉良山 御魂處:天日鷲命の后の御陵と伝わる)

絹織岩屋 此處に廣き岩屋あり尊機を織始め賜ふ所なり。當村三里四方を外曲輪として夫より三重に内曲輪の蹟あり。其後忌部大神宮と奉崇稱四國當社の神領也日本神楽の初は當社なり。東端山西端山一宇山穴吹山貞光に今以て社家神主楽人之子孫數十家あり。

吉良山上の絹織窟の中で天日鷲命は機織りをしたと伝わります。その吉良山を中心に三重の内曲輪、外曲輪の形跡がみられる忌部大神宮は四国の一宮として祭祀されていました。そもそも忌部氏は神の祭祀に特化した一族である伝承の通り、東西端山(忌部郷)に居住した忌部大神宮の氏人は神主、神楽を奉じていた人々でありました。

f:id:awa-otoko:20171020083848j:image(忌部三木氏発祥の地と考えられる三木栃からの眺望)

f:id:awa-otoko:20171019231206j:image(三木栃堂)

尊當村にて麻を植初賜ふ、夫より國々に麻を植布初む、右五カ村は社内にて今以て右村に末社數多あり、右麻を植させ賜ふ故祭體には麻を奉る。其節は今の三好郡は美馬郡と云ふ、其後美馬郡を三好郡と云ふ。麻植郡半分を美馬郡と改、三好郡なる麻を捧け奉るにより麻を植と書麻植と唱ふ。馬を美々しく飾り神馬を上に依り美馬と書て美馬郡と唱ふ。

天日鷲命は当地より麻を植え賜り、他の地域にも麻を植えることを勧めてきました。三好郡の領域は本来は美馬郡、さらに美馬郡麻植郡を半分に分けたものでした。この美馬郡という地名は天日鷲命が御馬に乗って当地に降臨したことを由来とする美称と考えられていました。しかし、天日鷲命伝承からは切り離しできない麻に関係がある美称だったのです。

f:id:awa-otoko:20171019234025j:image(宮平の額(楽)堂 :天日鷲命が楽を奉じし故の地)

豫州荢麻と書馬郡と唱ふ、四國中惣体郡村に右の古言多し。其節里分は大形惣海なり。今以て右五カ村惣名宇荢名地利と謂は此謂れなり。然處昔時數度の兵亂に神領を滅して三好長治には漸く二三カ村神領ある處、長治漸く横領して夫より神領なしとなり、自然と忌部破崩に及び候故社家神主楽人も百姓と成る。右吉良の御處を吉野と唱へかへし故川つらを吉野川と其後書替。

その昔、伊豫の郡名として存在していた宇摩(うま)郡は荢麻郡と書かれていたそうです。荢麻(うま:からむし)とは麻荢の意味で、これは麻の繊維を原料とした糸のことをいいます。

美馬(みま)」は、実のところ「美荢麻(みうま)」だったのではないかということなのです。

意訳すれば麻糸をつくる美しい郡というところでしょうか。(そのまんまww)まさに天日鷲命が降臨し、麻を植え、麻荢で機織りをした忌部郷にぴったりの地名ですよね。

宇摩郡 - Wikipedia

カラムシ - Wikipedia

f:id:awa-otoko:20171020083256j:image(友内神社)

f:id:awa-otoko:20171020083605j:image(友内山登山口にある天日鷲命像?)

このように神の祭祀と麻で繁栄した忌部大神宮(天日鷲命)の領域は、残念なことに中世の度重なる戦乱によって破壊されていきました。残っていた忌部氏人の村も三好長治によって神領を取りあげられ、遂に忌部大神宮の社地は無くってしまったそうです。その時、奉じるものが無くなった氏人達は仕方なく百姓となり、端山の忌部氏伝承は衰退していったのです。

 f:id:awa-otoko:20171020103403j:image(友内山道にある樹木)

両端山往古は貞光村也文禄中より貞光村東端山西端山三カ村に相分れ神代よりの名所なり、然所昔時忌部沽却し中古己来の名所記に見えず云々。又貞光川は木綿麻川と称す。忌部神社正蹟補考には最初友内山上にありたるならんと言へり、蓋し友内山上西森東森、日名祇の岩屋等忌部に關する遺跡伝説多きを以てなり。

神領を強奪された忌部大神宮は衰退の一途を辿り、さらに阿波に入国した蜂須賀家が忌部大神宮の復興を認めず、神宝の略取、焼捨てを指示して隠蔽を謀ったのでした。しかし時の権力者による横暴な対応に憤りを感じていた忌部の氏人達は、神代からの古跡の記録、また忌部の神宝の在処を口伝で残していたのであります。

そこで今回は古くより忌部郷に伝えられている名所(古跡)を資料により提示してみようと思います。(実は入力が面倒なだけなんですが… )

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上記資料の内容を冒頭の地図と照らし合わせれば、忌部郷の古跡位置を大体ですが掴むことができます。ご覧の通り古跡の数は多く、後々ピックアップするかもしれないので全ての説明は避けます。

その代わりといっては何ですが、awa-otokoの見解を述べます。これまで紹介したように貞光、東西端山の忌部郷と呼ばれた地域は主に天日鷲命の伝承が主体となって伝承されています。しかし、少し隠れた部分からは天日鷲命の后や御子の古跡が忌部氏人により伝承されていることに着目したのです。

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三サキ社(二社)

神子塚(二塚:朝日ノ子塚、夕日神子塚)

三サキ社(ミサキ=キサキ:后)については天日鷲命の后の御陵を示すもの。(遥拝所か?)神子塚についてはそのまま御子の塚(または血縁者)なのでしょう。

そのほか、忌部大神宮の境内に植えられていたという「実ナラズノ藤」と「鈴ナリノ梅」は古跡の何かと対応しているような気がするのです。忌部の神宝の在処とかな‼︎(こちらは直感なので悪しからず。)

天日鷲命一族を祭祀した聖域を忌部大神宮とし、その神領である3里四方を忌部内山とした。そしてその神領に含まれる貞光、東西端山の忌部郷と呼ばれた地域には実のところ后と御子も祭祀されている。

まさに阿波忌部族発祥の聖地」であるということから「端山は母山の義なり」と伝えられたのではないのでしょうか。

二回に渡って投稿した端山は母山説、珍しく題名の通りに締めれたのでそそくさと終了にしたいと思います。

 

オマケ

四国八十八ヶ所巡りを知っていますか?

意外と知られていないのですが忌部大神宮の古跡に関連して重要な部分なのです。忌部定光の墓が十三堂(これは十王堂のこと?)だったり、神子塚(たぶん朝日ノ子塚)が姫子塚として残っています。夕日ノ子塚の場所は現在不詳ですが名前を変えてお堂として端四国八十八ヶ所に含まれている可能性は高いです。

その他にもいろいろと…

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あー、これ載せたらSどん氏が悦びそうなので、ホントにこれで締めたいと思います。それではさよなら〜。(´・∀・`)