麻植郡からみる大宜都比売命・葦稲葉神の手掛かり
この神は遥かな昔に樫の葉に乗って天降ってこられたそうで、そのため川向こうを「樫の葉」と呼び、神様が降りた石を「影向石」と呼んでいたそうです。
「樫の葉」の地名は明治の頃までは残っていたそうですが、現在はどこであるかわからなくなっているそうです。「影向石」は種野小学校の西、黒郷(くろご)の権現の鳥居の前にある石が「影向石」であると伝わります。
(影向石)
余談ですが、黒郷の権現様は、姫竜命(ひめたつのみこと)・彦竜命(ひこたつのみこと)と呼ばれる神で、奥野々山の大笹・竜王神社の神の弟だそうです。奥野々山の神は大笹・竜王神とのことですが、これは私は初めて確認した内容であります。
忌部大神宮であった高越山から峰続きの奥野々山の神が他の神であることは考えられず、雨乞いの神としての側面から派生した神なのではないのかと考えます。(本元は天日鷲命、または天日鷲命に関係した神ではなかったか?)
影向石の内容から種野稲荷の神は高越山と峰続きの奥野々山に関係している内容を片隅に留めておいてください。
話を種野稲荷に戻します。
種野稲荷神社の棟札には「天正三歳□□祈願所 十山中」とあり、約九百年前から種野、桁、東、下別司、上別司、中村、三ツ木、川井、大浦、川田山の十山の総氏神であったことがわかる大変古い神社なのであります。また当社には「四方至(しほうづめ)の石」があり、その石は神社を中心におよそ四丁(一丁は約120㍍)の場所に立てられていたと伝わるのです。
・南東の楢の木の四ツ辻(現存)
・南西の大畑の西、川田への旧道上(現存)
・北東の種野八幡神社の上方、一本松の祠前
・北西の宮田にあった古い祠の付近
この伝承によると、種野の在所が全部その境の中に入ることになり「神の領域」として伝わっていたようであります。四方至は四至(しいし)ともいい、これは明らかに忌部祭祀の「神の領域を示したもの」のひとつではないでしょうか。
美郷村は昔の麻植郡の重要なエリアと言っても過言ではありません。剣山から三ツ木、山間部から平野部に繋がる忌部祭祀が色濃く残っている場所です。ダイレクトに伝えれば、天日鷲命の領域の中に稲荷神(大宜都比売命・葦稲葉神(若室神))が大々的に祭祀されているのは極めて珍しい事例あります。
今回テーマにした種野稲荷神社の坂の登り口にある田をはじめ、種野峠の田を「稲荷免」とし、種野稲荷の神にお供えする田として税を免除されるお宮の田、即ち「宮田」と呼んでいました。
これは明らかに「大宜都比売命・葦稲葉神を意識した祭祀」、穀物の豊穣を祈願したものであるといえるでしょう。
(ちょっとここのお狐さんはキツめのお顔ですね〜。)
この事例から何を伝えたいかというと、神山神領から忌部山を越えて伝わった「大宜都比売命・葦稲葉神」が美郷村の一部の地域に根付いて祭祀が継承された。それが後に麻植郡平野部に降りて、さらには吉野川を下り、上板町の「葦稲葉神」として祭祀されたのではないかということなのです。
さらにこの二柱が降りた善入寺の北側エリアの平野部(市場町・阿波町)では、絡まった糸のように祭祀・御祭神・伝承が混濁しており、この絡まった糸を解かなければ真相に辿りつくのに必要な「ヒント」が現れないのです。
この部分を踏まえて今後はさらに注意深く調査したいと考えております。