awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

阿波一宮城 明神丸は大宜都比売命の祠跡(一宮町 一宮神社)

今回は大宜都比売命繋がり続編ということで一宮神社です。

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ところで「阿波志」を調べてましたら「弘法大師 山祇ノ神、宇賀女神、宇賀御霊神の三神を合わせて稲荷神として祭る」と書いてあります。

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完全にスルーしてしまってました。

阿波古代史を調査するうえでメジャーな文献 阿波志の中の記載を見逃すなんてまだまだです。

という訳で、一宮神社のご紹介。そもそも一宮神社は「阿波隠し」が開始された場所と言っても過言ではない神社でなのであります。

阿波の神が徳島市内に散らばる前のターニングポイントが一宮神社。調べれば調べるほど面白い。現地に行けばさらに面白いのです。

さて、神山町 神領に鎮座する上一宮大粟神社から南北朝時代の戦乱期に当時の神官であった田口氏により一宮村の明神峯に分霊を移されたのが一宮神社のはじまりであります。

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大宜都比売命を祀る祠があった明神峯とは現在の一宮城跡の明神丸跡地で「明神丸 堅十八間横九間一宮明神社地跡」と記録も残っています。

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それでは寛政五年に阿波志編纂のために召された一宮神社宮司所蔵の資料を見てみましょう。

一宮大明神 大宜都比売命

                   大阿波姫命、伊古那姫命

当社は大宜都比売命を奉祭社に而御座候。

此神粟を作り初め給う故、大粟姫命と申奉る。御神系は伊奘諾尊、伊将冊尊二柱の御神の御子にて、伊予国大三島に御鎮座始めは伊予国丹生之内より、神領村に御鎮座あり、其後鬼籠野村に御鎮座ありといへども年月不分明其後人皇十三代成務天皇御宇日本武尊の御子息長田別皇子阿波国造となり給ひ府中村に在し給ひし時、大宜都姫神を崇敬し給ひ一宮村に鎮座なさしめ給ふよしに候。(略)

其御四十五代聖武天皇勅願として、天平年中諸国に一宮国分寺に建立ましまし候節、大宜都比売命阿波国一宮大明神と被成由。依而地名も一宮村と申候。

其後 五十二代嵯峨天皇御宇 弘仁年中 弘法大師四国順拝の時一宮大明神を十三番札所に入即詠歌に「阿波の国 一宮とはゆうたすきかけて たのめよこの世 後の世」

其後 元暦の比 源義経平家追討のため讃州八島へ御発向の砌り一宮村滝下と申所御通り被成候時一宮大明神遥拝あり、中指の鏑矢二筋宮御願書等其辺の松に御かけ被成候。由申伝候。

只今其所を伏拝八幡と勧請仕一宮末社にて御座候。

八島の軍勝利を得給ひ凱陣の節 永楽銭三千貫御寄附ありし由申伝え候。其後天正の乱の時 長曽我部のため社を焼失され神耺長門守も歿落の砌 御願書も灰燼と相成候由申伝候。

一社伝云。大阿波姫命 鹿に乗せられ伊予国大三島へ通はせ給ふ御使の鹿も伊予国に毎々通ひけるに女鹿は麻植郡にて殺されけるとぞ。殺人も神罰にて家断絶しけるとなん。故に一宮末社の中に鹿ノ社とてあり。 

大阿波姫命伊予へ通はせ給ふ折から高越の神と闘争し給ふ事ましまし互に石を投げ合給ふ中に立て御扱の神あり。

その石歯に中りて甚疼み給ふ故此後歯を疼むものは吾快くして得さすべしと宣ふ御誓ひにて、今に広野村行者野に歯辻明神とて小社あり。

右投げ合いし石 入田村大畠と申所の山上に数万の河原石あり。この争の後は大三島への御通ひ路を深く忍び給ひ候由申伝候。

前に記す女鹿は殺された男鹿まで残り折々は神使に参りしを北方辺にて見たるものも有之由承候然れ共是等の事は神変にて是ぞと申慥なる証拠御座なく候。

右高越神と一宮神と御争の証しと申は今に一宮氏子の者は高越参詣不仕勿論縁組等も不仕候。

はい。伊予国 三島大明神の勧請ですか。

これ、ちょっとわからないですね。大宜都比売命は阿波咩命と同神とされています。伊予国三島大明神大山祇神。伊豆の三島大明神事代主神です。その辺の繋がりなのでしょうか。

まぁ、伊予国と何らかの繋がりはあったのでしょう。もしかすると鎌倉時代からの荘園の話が混在しているのかもしれませんが。

その他には高越山の神と争いの内容とか面白いです。

このように一宮神社の伝承には様々な神の存在が入りこみ大宜都比売命だけで話が絞れない状態になってしまいます。

古代から中世までの詳細はこれからの調査がさらに進むのを期待する状態ですが、江戸時代からは以下のように記録が残っております。

徳島市富田大麻比古神社は一宮城明神丸に祭つた城内鎮守五社の一つであった。

天正十年十一月一宮落城のみぎり、弥吉なるもの日頃信仰する大麻比古神社御神体を奉じて脱出し、入田町の矢那谷に祭つたのを蜂須賀氏徳島へ移られた際、一宮附近の神社仏閣を多く徳島へ移された。大麻比古神社を一名 弥吉明神と云うのはこのためである。

一宮附近の神社仏寺々徳島市に移されたものに滝の薬師は入田町建治寺の薬師であり、滝の八坂神社は同じく入田から、滝の春日神社も入田町春日から、富田八幡神社も入田から移したものと伝えられている。

このように入田町に鎮座していた麻能等比古神社が一宮明神丸城内鎮守五社のうちの一社であったということ。

また、その麻能等比古神社が富田大麻比古神社になり、入田町春日に鎮座していた春日神社が蜂須賀総鎮守 大滝山の春日神社に。富田八幡神社も同様のことから蜂須賀が動かした神々は元々は一宮城明神丸の神であったことが考えられます。

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 冒頭に書いたように一宮城 明神丸の原初の神は大宜都比売命

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この阿波の国魂神であり、大福神である大宜都比売命が日本全国に稲荷神、豊受大神に変化して拡散された他、江戸時代には徳島市内に様々な神として拡散したことがわかってきました。

ちょっと面白くなってきたので大宜都比売命シリーズは続けようと思っております。