阿部氏が大宜都比売命に仕えた理由(わけ)
名西郡神領村氏神由来傳羕之覚
當社上一宮巻大明神御神号大粟姫命亦大宜都比売命トモ申奉リ其ムカシ伊勢国丹生ト云フ処ヨリ當村丹生ノ内山へ御出アラセラレケル其則私古ノ先祖木挽職ニテ右山へ罷出候折不斗御月ニトマリ給ケルニヤ
大粟姫命曰ケルハ其方給物処持㪈サスヤト被仰幸ヒ米持参仕候ニ付清浄ニ御飯炊キ杣事ニテ奉献候折御感付俴思ワサレニヨリ右山ヲ枌ノ尾曰ト今ニ地名申来候大粟姫命曰ケルハ我當村ノ氏神ト相成候間向後我飯焚ト相成候様先祖へ被仰付御直筆頂戴仕ル 其節御馬ニ召レ候币折節天火ニテ頻ニ御馬近クノ山焼ケ来リ候ニ付御召馬ヲ石トナシ給ヒケル今ニ其石馬ノ姿ニ相顕レ此処ヲ御馬石ト申テ只今舊跡ニ御座候
アル時雨降来るリ候ニ付岩洞ニテ暫ク御腰ヲ懸ケ御雨凌キ被遊ケル此処ヲ降腰ト申テ今ニ小社御座候
コレヨリ大野地名川縁ニ御腰ヲ懸ケ給ヒケル此処ヲ越ノ宮ト申テ今ニ小社御座候
上角名ニテ御装束ヲ被遊御改貳丁許山上ニ御鎮座在ス此処ヲ大粟山ト相号シ則數地ノ水流ヲ装束谷ト申傳ヘケル
然ル処其刻御社ノ前通行ノ人々馬竹駕或ハ雨天之砌笠杯着シテ土俗行通ヒ㪈事決而不相成大ニ迷惑仕候ニ付貳丁許右御社ヲ下ケ御座候折何ノ障モ無之相成申候尚又寶暦年中ニ相至リ只今ノ社地へ奉移候云云
私先祖之傳記アラカシメ書顕御達申上候以上
天保十亥年九月
神領村神職 阿部但馬
上記は大宜都比売命に仕えた先祖の経緯を阿部但馬が書きあらわしたもの。今回はちょっとふざけてawa-otokoがawa-otoko訳に変えてご紹介致します。(イヤな予感…笑)
(御月と考えられる場所)
以西(いせ)からやって来た大宜都比売命は御月という場所で木挽をしていた阿部氏先祖と遭遇しました。大宜都比売命は挨拶もそこそこに、「何か食べるものとか持ってない?」と尋ねてみました。そうすると以外なことに阿部氏先祖は、持参していた米を使用し、丁寧な調理をして大宜都比売命に食べさせてくれたのです。
阿部氏祖先は本来、木挽職の他に農業(米作)に長けた者であったいう暗示が含まれているように感じます。大宜都比売命の臣下に入ってからは祭官の能力を遺憾なく発揮しているように記録からは見て取れます。
食事を準備して貰った大宜都比売命は、阿部氏祖先のことを「コイツは使える!!」と思い、阿部氏祖先も「転職先ゲット!!」と双方の思惑が交錯し(たかどうかはわかりませんが)、大宜都比売命は阿部氏の居住地範囲の氏神になることを約束します。また、阿部氏の先祖は大宜都比売命の専属調理師に従事することになったのでした。その時の約束や辞令は直筆で書いて契約したそうです。
大宜都比売命は阿部氏祖先から異文化の伝授と情報交換を、阿部氏祖先は大宜都比売命の巫女能力による集落、また氏族に対して精神的支えになることを要求したのではないでしょうか?
(御馬石と祠)
さて、晴れて村の氏神になった大宜都比売命は張り切って御月の山を馬に乗って巡回していました。しかし、その時に近くの山で山焼きしていたことを知らされていなかった大宜都比売命と馬は運悪く火に囲まれてしまいます。狼狽えた大宜都比売命は馬に乗って逃げず、何を思ったのか愛馬を石に変えてしまいます。それが後に幸いし、石に変えられた馬は「御馬石」と呼ばれてパワースポットとして認定されました。
御馬石周辺の山々では山上農法として山焼き:焼畑農業を運用していたこと暗示しています。御馬石周辺は山肌の急斜面であり、小規模な窪が各所に存在するのみ。丹生ヶ山という名称があるにあたり、山焼きの実行は農業の他に目的があったのかもしれません。
(天王社)
火の手から避難した大宜都比売命は、馬を見捨た後ろめたい記憶を早く忘れたかったので御馬石より場所を離れて散策していました。
散策の途中に雨が降ってきました。雨をしのぐために窟を見つけて腰を下ろしましたが、その場所が後に降腰(ふるこーし)と呼ばれるようになりました。今の天王神社がある場所です。
(腰ノ宮)
雨が止んだので降腰から川縁に沿って降りてきました。川べりを歩いて疲れたので、また腰を下ろしました。その場所が現在の腰ノ宮神社の場所です。
"腰を下ろした"と伝わる場所は、大宜都比売命・大宜都比売命臣下が"拠点: 城 "を置いた場所と考えられます。大宜都比売命にまつわる地名が付けられている場所には随神を祭祀した社が存在していました。
(装束谷)
巡回が終わった大宜都比売命は衣装を着替え、山の上で神事を執り行なおうと考えました。着替えた場所には装束谷という名前が付き、神事と大宜都比売命自身が生活する山は大粟山という名前になりました。
(大粟山)
(天辺ヶ丸)
大宜都比売命の趣味であるガーデニングで粟を試したら上手く繁殖したので民にもおすすめして育て方も教えてあげました。粟を繁殖させる方法の伝授と神事が素晴らしかったことから、大宜都比売命は大粟姫命とも呼ばれ、さらに崇められるようになりました。
神事は大粟山山頂の天辺ヶ丸で執り行ない、終われば装束谷にわざわざ移動していました。大宜都比売命の巫女能力はずば抜けており、様々な神託を降ろしてクニを繁栄に導いたと思われます。また、集落の人口が増加する過程において粟の育成を推奨、民の食料事情に貢献したと想定します。
(古祀場)
時代は大きく流れ、大宜都比売命はさらに威厳が高い神となっていました。何故か大粟山の前では馬に乗ったり、雨の日に笠を被ったら失礼にあたるということが勝手に決められました。当然付近の住民からクレームが出始めます。
昔は高い場所ほど神の威厳が高く拡散すると考えられていたので、神の威厳を少し低くするために大粟山の山頂から麓に社を下ろしました。それが明治期の大宜都比売命の社の場所です。
中世以降は大宜都比売命の神威を表向きにして一宮祭官家が統率を図り、民衆が迷惑を被ったと考えられます。一宮祭官家は神領村の神宮寺に隠居し、一宮家が滅びると再び阿部氏が祭官家を継承することになって現在に至るのであります。
と、いうところで阿部氏祖先が大宜都姫命に仕えた理由は…
阿部(阿閇)氏が大宜都比売命の臣下に属すにあたり、阿波国内はもとより日本列島津々浦々、また朝鮮半島にまで行動の範囲を拡げております。
個人的な調査結果から推測するに、大宜都比売神の巫女能力を阿部氏は継承したと考えられ、様々な神の名をもとに信仰を拡げております。
そうです。阿波女社祖系です。即ち阿部氏は阿波女氏。(だと思っている。個人的には。)
海人族と融合して阿波国より瀬戸内海、近畿圏、北陸日本海まで活動を拡げられたメリット。
当時、大宜都比売命という神は神々の中でも別格の勢力であったと推測できます。異文化を有し、絶対の存在感を持っていたはずなのです。そのようなバックボーンは氏族からは喉から手が出る程に有していたはず。
そして何より阿部氏は武力より神の能力を選択して氏族の能力を高めていった。それを得ることができた阿部氏はとても運に恵まれた氏族であり、先見の明があると言えますよね。
と、いう訳で次回テーマは!?
矢野村杉尾明神を八倉比賣神社と改正せられたるは如何なる考証ある欤知らされども決めて誤り也。杉尾明神は天石門別豊玉比賣神なるべし。です。乞うご期待。(変更するかもしれませんが。笑)