阿波井神社で隠れている神
阿波井神社(あわいじんじゃ)は徳島県鳴門市瀬戸町堂浦に鎮座しています。
堂浦地区と小鳴門海峡を挟んだ対岸の島田島南部にあり、クスノキをはじめとする各種の古木に全山が覆われた中に社殿が建立されています。
神殿は元々、この山の背面にあたる内海に面した場所にあったが、江戸時代の徳島藩主家である蜂須賀氏によって現在の地に移されたとのことであります。
この神社の祭神は天太玉命、大宜都比売命だけの紹介にとどまっておりますが…
驚くことに、この神社にはまさかの神が隠れていたのであります。
ソースはこちら。(今回書き下しに自信なし… )
阿波井神
霊験新たかなる神なり。水戸の神 秋津姫命と呼ばれるならん。おの身しも写したまわり志思ひ人のいふをも必ず叶えると曰く常なり。
今思ふに三代実録云貞観十四年十一月廿九日阿波国正六位上伊比良姫神 船尽咩ノ神並従五位下云云船尽咩の神にして今阿波井咩神にて祀れるにや。実々社の辺りは岐水門にて是考えるに船尽ノ神とも唱へ奉る也。
はい。 江戸時代、大麻比古神社の祭官を務めていた永井精古が記録した「阿波国見聞記」から引用しました。記された内容からすれば名方郡の船尽神社より分祀された社に間違いないでしょう。
この発見から興味をそそられるのは、忌部氏が天太玉命と大宜都比売命を祭祀して海を渡ったということに加え、船尽咩神: 猿田彦大神(にひじょうに近い神)も含められていたということ。
awa-otokoは、天太玉命=天日鷲命、船尽神=猿田彦大神=大麻彦神と考えていますので、ここに大宜都比売命が加われば粟ノ國創生の神である三神が、当地に勢ぞろいしていると考えることができるのです。
天日鷲命、大麻彦神(猿田彦大神・船尽神)、大宜都比売命、それぞれに名前を変えながら全国津々浦々に広がりをみせておりますが、そのスタート地点が阿波井神社であったとすればとても大きな発見なのではないでしょうか。
また、ご存知かもしれませんが讃岐国にも粟井神社が分祀されております。こちらは手置帆負命が祭祀されているのですが、「阿波井(あわい)」と「帆負(ほおい)」の音が似ているということが述べられています。これついてはさすが少し強引な繋ぎであるのではないかと考えますが、手置帆負命と阿波井神社の関係性は少なくとも「有る」のではと想定しています。
(入田町に残る謎の供養塔)
手置帆負命は、天照大神が天の岩屋に隠れてしまわれた時、彦狭知命(ひこさしりのみこと)と共に天御量(あまつみはかり)をもって木を伐り、瑞殿(みずのみあらか)という御殿を造営した。
天児屋命(あめのこやねのみこと)らが祈りを捧げ、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が舞を奏したところ、天照大神は岩屋を出て、この瑞殿に入られた。 後年この間に天降りした大国主命(おおくにぬしのみこと)の笠縫として仕えたとされる。
古語拾遺(807年)の「天中の三神と氏祖系譜」条に、太玉命(ふとたまのみこと)が率いた神の1つとして、「手置帆負命(讃岐国の忌部が祖なり。)」とあり、この「手置」とは「手を置いて物を計量する」意味と解釈されている。
また、同書「造殿祭具の斎部」条には、「手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」とあり、朝廷に毎年800本もの祭具の矛竿を献上していた。このことから竿調国(さおのみつぎ)と呼ばれ、それが「さぬき」という国名になったという説がある。(Wikipediaより)
入田村 謎の供養塔に刻まれた手置帆負命についても何らかの形で関係していたように思えてなりません。入田村から船尽神(猿田彦・大麻彦)が当地へ。そして淡路島、讃岐へ渡った拠点であったと想定できることから、同じ入田村から手置帆負命と彦狭知命も同ルートを辿り当地に集合し、讃岐、淡路島へ移動していったという流れを引用に絡ませて想定してみました…(が、詳しくはまだ解ってないのであくまで想定)
(讃岐の粟井神社)
(讃岐の大麻神社)
(讃岐の飯神社)
讃岐忌部の祖である手置帆負命と彦狭知命を入田村から阿波井神社へと関係付けたのはいささか強引でしたが、船盡比賣神がまさか阿波井神社の隠れた祭神であったのは驚きであることでしょう。
ここから新しい発見や他国との繋がりがみ出せるかもしれませんね。
ということで、新しい材料は用意したので後の調査は任せました。(誰に⁈ 笑)
それでは。(`_´)ゞビシっ。
オマケ。
阿波国 一ノ宮である大麻比古神社はもともと「大麻比古神社」という社名ではなかったようです。
「一宮大麻産神社」。ちょと面白いと思いませんか?