awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

俺の屍を越えて行け(もうひとつの庚午事変)

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今回は番外編。明治三年に阿波国で勃発した内紛騒動 庚午事変にまつわるお話でございます。庚午事変については、日本法制史上で最後の切腹刑の処分が発せられたとして有名ですね。

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f:id:awa-otoko:20170610150640j:image眉山 大滝山峯薬師横にある庚午事変の石碑)

日本全国が勤皇と佐幕の二派に別れ、力と力の対決で揉めに揉めたあとに明治維新という新政府の変革が行われた。王政復古については矢継ぎ早に西洋の文化を取り入れるきっかけとなったが、江戸幕府下の武士・百姓・町人(士農工商)の別を廃止し、「四民平等」を謳ったことにより、権力の世界に安住していた武士たちは、これまでになく行き場のない不安と憤りを隠せないでいた。そのような状況から阿波国徳島藩)で勃発した内紛が庚午事変である。(庚午事変概要は下記に引用)

庚午事変

庚午事変(こうごじへん)は、明治3年(1870年)に当時の徳島藩淡路洲本城下で洲本在住の蜂須賀家臣の武士が、筆頭家老稲田邦植の別邸や学問所などを襲った事件。稲田騒動(いなだそうどう)とも呼ばれる。

徳島藩洲本城代家老稲田家(1万4千石)は、主家である徳島蜂須賀家との様々な確執が以前よりあった。幕末期、徳島側が佐幕派であったのに対し稲田家側は尊王派であり、稲田家側の倒幕運動が活発化していくにつれ、徳島側との対立をさらに深めていくようになった。そして明治維新後、徳島藩の禄制改革により徳島蜂須賀家の家臣は士族とされたが、陪臣(蜂須賀家の家臣の家臣)である稲田家家臣が卒族とされたことに納得できず、自分たちの士族編入を徳島藩に訴えかけた。それが叶わないとみるや、今度は洲本を中心に淡路を徳島藩から独立させ、稲田氏を知藩事とする稲田藩(淡路洲本藩)を立藩することを目指す(そうすれば自分たちは士族になる)ようになり、明治政府にも独立を働きかけていくようになる。稲田家側は幕末時の活躍により、要求はすぐ認められると目論んでいた。

明治3年5月13日(1870年6月11日)、稲田家側のこうした一連の行動に怒った徳島側の一部過激派武士らが、洲本城下の稲田家とその家臣らの屋敷を襲撃した。また、その前日には徳島でも稲田屋敷を焼き討ちし、脇町(現在の美馬市)周辺にある稲田家の配地に進軍した。これに対し、稲田家側は一切無抵抗でいた。これによる稲田家側の被害は、自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人、他に投獄監禁された者は300人余り、焼き払われた屋敷が25棟であった。

政府は一部の過激派だけの単独暴動なのか、徳島藩庁が裏で過激派を煽動していたりはしなかったかを調査した。少なくとも洲本では意図的に緊急の措置を怠った疑いがある。そのような事実が少しでもあれば、徳島藩知事であった蜂須賀茂韶を容赦なく知藩事職から罷免するつもりであった。

当時の日本は版籍奉還後もかつての藩主が知藩事となっているだけで、旧体制と何ら変わらない状態だった。政府にとって、この問題は中央集権化を推進していく上で是非とも克服してゆかねばならなかった。だが下手な手の付け方をすれば、日本中に反政府の武装蜂起が起こりかねないため、慎重な対応を余儀なくされた。

結局、政府からの処分は、徳島側の主謀者小倉富三郎・新居水竹ら10人が斬首(後に蜂須賀茂韶の嘆願陳情により切腹になった)。これは日本法制史上、最後の切腹刑となった。八丈島への終身流刑は27人、81人が禁固、謹慎など多数に至るに及んだ。知藩事の茂韶や参事らも謹慎処分を受け、藩自体の取り潰しはなかったものの、洲本を含む津名郡は翌明治4年(1871年)5月に兵庫県に編入されている。

稲田家側に対しては、この事件を口実に北海道静内と色丹島の配地を与えるという名目で、兵庫県管轄の士族として移住開拓を命じ、彼らは荒野の広がる北の大地へと旅立っていった。この静内移住開拓については船山馨の小説『お登勢』や、映画『北の零年』でも描かれている。(wikipediaより)

さて、洲本ではすでに焼き討ちの火の手があがり、徳島でも一番討伐隊は脇町を攻撃。二番討伐隊も大挙進発しようとしていた。藩の重臣たちはこれを止めるべく説得したが、血気にはやる連中はこれを聞かずに押し出た結果となり、これを知った監察 下条勘兵衛重孟、弁事 牛田九郎尚徳は、蜂須賀茂韶 藩知事の留守中に大事を引起しては申し訳ないと馬を飛ばして後を追ったのである。

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f:id:awa-otoko:20170610153507j:image(石井町浦庄 願成寺)

ようやく名西郡石井町浦庄 願成寺近くで討伐隊に追い着くことができた。直ちに引き返すように諭したが興奮しきった藩士達は耳を貸さず、またもや押し進めようとした。

 

“どうやってもここで食い止めるべき… ”

 

意を決した勘兵衛と九郎は、「それほど行きたければ、われわれ両名の屍を越えて行け。」と願成寺の縁先で見事に立腹を切った。

これにはさすがに血気に盛っていた藩士たちも両名の心意気に圧倒されて引き揚げることとなり、事無きを得たのである。

f:id:awa-otoko:20170610153441j:image(願成寺横の五輪塔墓)

事件が落ち着き、関係者の処分がそれぞれ決まり、下条と牛田の両名は暴挙を阻止した功績により賞賜された。下条勘兵衛は徳島市瑞巌寺、牛田九郎は同本福寺に葬られ、そして両名が切腹した願成寺には両名の武士道を讃えた庚午記念碑が建てられたのである。

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f:id:awa-otoko:20170610154232j:image(願成寺 境内にある庚午記念碑)

当時の実見者による口傳によれば、一人の切腹は見事なものであったが、一人は難渋したとされる。牛田九郎が先に切腹し、「俺の屍を越えて行け。」といったのも、見事な切腹をしたのも九郎だったという話が遺族の記録にも残されており、当時の一般的な認識もそうだったようである。

 

はい。このようなドラマのような展開が、繰り広げられた場所が、時代を経て忘れ去られてしまうのはとても惜しいと思い、今回番外編として取り上げてみました。また気になった近世ものがあれば番外編やります。(・Д・)ヤルゼ!!