箸蔵寺に隠された「箸:はし」とは何なのか⁉︎
はい。今回は三好の箸蔵寺。讃岐金毘羅さんとは深い深い関係にあって古より奥之院とされております。(結構距離が離れているのにね。)
ちなみにawa-otokoは大國主命と少彦名命が伊豫国の道後温泉への行幸途中に立ち寄った場所の一つが箸蔵寺だと考えていましたが、調べて行くうちにどうもそれだけではないと感じるようになりました。
以つて金毘羅奥の院と稱ふる所以を知るべし
登箸山後嶺四讃諸勝集于目下宛然可數也 新居水竹
只訝遊仙夢有蹤。雲山何首幾重々。渇來愛一升水。憩去偏宜七本松。縹緲江城睛日麗。依稀嶽廣瑞烟漂。分明縮地登臨宗。輕擧呤笻欲化龍。(一升水七本松皆嶺上地名)舟中望箸蔵寺 美馬太玄
山腹燈臺望初分。舟中指点挿天雲。高僧盡日清齋處。定是香烟一烓薫。 箸蔵谷 三宅舞村
邃寂晝猾冥。深渓杉檜靑。傅言藏箸處。山鬼鎖岩扃。
當寺傳ふる處の古記録中空海の筆成りしと云ふものあり。其文を抄録す。
夫具明目者。善視隣至繊。有數術者。亦量蘇迷太洪。獨絶䅐離量者。其椎本地法身也歟。发有山。在阿之北境。起伏自不凡。似有含光者。躋則遇一神人。曰法之行也。地靈爲之羽翼。此山之靈。亦足以闘利生。須其顧悲願以賛我志。是我本地醫王佛之本誓也。余於是始知。神人之爲金毘羅神將云。天長五年 空 海
箸蔵寺は天長五年に弘法大師が四国巡礼の際に箸蔵山で金毘羅神の御神託をお受けになり、御本尊を刻まれて奉安し当寺を開創されたと伝わります。
いつものことですが、空海が巡礼の際に立ち寄った箸蔵山で金毘羅神の御神託を受けたのではなく、意図的に当地を訪ねたのが本当のところでしょう。当山の何かを隠すため、または保護することを目的として寺を開基したのは明白です。
此の箸蔵山の樹を伐ること山神殊に惜み給ふ、霊窟のあたりへさ人々行く事あたはず、この寺の住僧すらむかし行て未帰らず、神林の外なる此の寺の林樹を買てさへ伐取し人はもとより其の木を亦買せし先々まで神罰あり、故にそれを知りては薪炭にてもあれ人畏てかふ事を忌む。
この箸蔵寺(箸蔵山)、やたらとバチがあたる等の伝承を耳にします。その神罰を与える者の正体は神であったり、天狗であったり、また仏法僧と鳴く怪鳥だったり。よほど箸蔵山周辺に人が入ったらまずい物があったのでしょう。(神は金毘羅大権現。天狗は山伏、修験者の出入りがあったことを暗喩し、仏法僧の鳴き声は法螺貝の音か?)
ここ箸蔵寺は金毘羅大権現 奥之院。やはり讃州 金毘羅神を中心として「何か」を蔵していたことはまず間違いないと思います。
讃州金毘羅神、例年十月御祭礼行啓終て陪従の人々へ御山接待所にて饗饌あり、喰ひ終ると椀も箸も其の儘さし置て下山するなり、十日十一日共に申刻過より上なる山門に竹垣を結て登山を禁す、さて如何なる故にや彼の喰捨て置きし箸を残りなく三好郡箸蔵山の岩倉へ其の夜中に山神の持運び納め給ふと云、或は除災の護衛にせんとて宿所へ持帰り、又は試に御山の石垣の間などへ蔵し置ても後日悉くこれなし、奇異なる事なり。
讃州金毘羅神の奥之院ということで、地理的に瀬戸内海から遠ざけているように考えられます。
その他にも箸蔵寺の南東方向には天椅立(あまのはしだて)神社が鎮座し、こちらの神社の椅立(はしだて)も箸蔵寺の箸と関連があると考えます。
金毘羅神と空海がここまで隠した「箸(椅): はし」とはいったい何だったのでしょう。これを突き詰めるには、讃州金毘羅大権現の神事も調べる必要がありそうですね。