awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

一宮城から徳島城へ移したもの…

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お久しぶりです。awa-otokoです。

今回は鮎喰川右岸、一宮町西部にある東竜王山系の尾根先端に位置する徳島県で最大級の中世山城跡、一宮城に着目したいと思います。以前は大宜都比売命関連で頻繁に投稿していた場所ですね。

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一宮城は南北朝時代初めに小笠原長宗によって築城されたと伝えられ、その後天正七年に土佐の長曾我部元親が侵攻するまで小笠原氏の末裔である一宮氏が代々居城としていました。

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f:id:awa-otoko:20181222200740j:image(一宮城本丸跡に鎮座する歴代一宮城主を祀る若宮祠)
f:id:awa-otoko:20181222203516j:image(徳島公園 蜂須賀家政像)

天正十三年に蜂須賀家政が入城し、阿波国支配の拠点として大改修を開始したものの翌年には徳島城に本拠を移すこととなります。

家政は一宮城の由緒深き建造物を大切に保護したとされ、以下の建造物を徳島城付近に配置したと伝わっています。

・一宮城(里城の館)を丈六寺の本堂として移設

・一宮城(里城)の表門を徳島城 楠御門へ移設

・一宮城(里城)の茶室を家政の乳母 渡辺某へ贈与

・一宮城門のひとつを徳島会議所の門へ移設

・一宮城門のひとつを佐古清水寺へ移設

・一宮城の厩を徳島城へ移設

・一宮城火薬倉を蜂須賀家火薬製造所へ移設

・一宮城大石を徳島城石垣、庭園の名石として使用

(記録に残る一部)

f:id:awa-otoko:20181222202045j:image(丈六寺本堂)
f:id:awa-otoko:20181222202150j:image(楠御門付近)
f:id:awa-otoko:20181222203651j:image新町橋は家政入城の際に架けられた)
f:id:awa-otoko:20181222203659j:image(家政入城の際に寺社が集められた寺町)
f:id:awa-otoko:20181222203656j:image(一宮城下鎮座の大麻彦を徳島城下へ遷座

 

当初蜂須賀家政は阿波入国の際には一宮城に有って阿波国の統轄を計っていました。木屋平、仁宇山、祖谷山等の阿波山獄武士が蜂須賀に対して度々謀反を企ているのを察知していました。また、古からの城主であった一宮成祐もまた阿波山獄武士の総帥であったことを考慮し、その拠点であった一宮城里城の建造物を即座に解体して本拠地となる徳島へ移動したのかもしれません。(当時、長曾我部元親に謀殺された一宮成祐の血族とその家臣が一宮城下鹿野原で隠遁生活を強いられており、一宮成祐の一族が時に呼応し世に出るための機会を密かに練るということがないように一宮城の主要部分を解体し、阿波国土着の武士を精神的に抑え込む意図も含まれていたのではないかという解釈です。)

 

さて、、、突然ですが、ここで一首…

「朝日輝き 夕日に沈む 金は楠木の下にあり」

一宮城の埋蔵金のことを歌ったものと伝えられている句ですが真実かどうかはわかりません…

awa-otokoは楠木の場所をつきとめました。が、敢えてここでは発表しません。

 

最後に…

一宮成祐を謀殺した長曾我部元親は一宮城を奪取しましたが、豊臣秀吉に目をつけられて結局一宮城を特に詮索することもなく敗戦して明け渡すことになりました。

長曾我部討伐に手柄をあげた蜂須賀家政の阿波入国一年後の大掛かりな本拠地移動ですが、その資金はどこから捻出したのでしょうか。

蜂須賀家政が何故に一宮から徳島へ短期間で移動する必要があったのか、また一宮から徳島へ移動したものは建造物だけだったのかを今一度きちんと調べる必要がありそうですね。