awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

阿波女社宮主祖系を探る… 粟国造家と粟国造館の秘密

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阿波女ハ太粟姫尊ノ御事
若室神ハ太粟姫尊の御子ニテ畠多神迄ヲ高皇産霊尊九世孫 千波足尼迄ヲ神ト記サル也
 
大宜都比売命の末裔は大宜都比売命の御子 若室神(葦稲葉神)より八代目の畠多神までが神とし、粟國造之祖八倉比賣神社宮主とされ、以降九代目の佐人より人として粟國造八倉比賣神社宮主に移っていきます。
 
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今回は阿波女社宮主系の調査に立ち返り、大宜都比売命 末裔達の伝承と粟国造家の旧跡をご紹介したいと思います。
 
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若室神(大宜都比売命 御子)
今一宮大明神の社地に若宮と云ふあり 祭神葦稲葉神といへり 若宮は若室を誤り伝えしなるへし
亦社より三四丁の処に室須といふ地あり 氏神なるよしありけなる地名なり 葦稲葉神 永井(精古)氏 「神社略考」の附録に説ありて神宅村にも社ある由なり 若室神の又の御名にて御功ありて祭り奉りしを考ふへし
こちらは過去に紹介した大宜都比売命の御子である若室神の内容。若室神は上板町の葦稲葉神であったことは確実なようです。
 

天磐門主神(若室神 御子 大宜都比売命二代孫)
神領上山(神山)村の地は四方高山圍し地なり 只神領村の瀧津といふ地 峨に巖石立聳へ両山の間に三拾間斗開き高き峯より谷底迄切ぬきしめくなり 其処より上山上下左右内神領四ヶ村谷水流出し度々入田一宮の村をすきて鮎喰川へ出るなり 
村人口碑に傳ふる処で「神領村は湖」にて上角名と青井夫名の後へ水泡を打渡せし故其地を今は「あはのたわ」と云ふ然るに若し瀧津山を切しは
この神なとの御功にて御名を奉しは瀧津两山の間大巖立聳へ磐門ともいふ良き地なり
この伝承と同じ内容で、往古湖だった神山町神領地域の水を空海が抜いたとされる伝承も残さております。しかしはっきりと付会であると断言されています。どうもこの天磐門主神が大掛かりな治水工事を行ったようです。
 

多久理彦神(大宜都比売命 六代孫)
上山村下分栗宇野名に塚あり むかしより尊敬して「くりふのみはか」といふ 多久理彦神の多を略して久理彦神の御墓といひしをよりなまりて「くりふの御墓」といひ地名を栗宇野となりし
いつしか牛塚ともいひて諸人伝えるも厚くただの塚にはあらずまことの神陵なるへし
こちらは粟生野の地名の起こりと御墓の存在が記録されております。多久理彦より粟生野に拠点を置いたことが考えられるのではないでしょうか。こちらに粟国造本館が存在したようです。(後述)
 
 
岩肩彦(大宜都比売命 十四代孫)
神領村の人面嶽といふ処あり 数十丈の大巖を人面のかたちにきざみたり 目鼻口眉其あさやかに上作なるる見る内に語を問ふのと思ふどおりにて春のうららこのなる日にてみると笑ふめんにみえ天上自然のわざと思へとも必神作又は上代の作なるへし 是等の作者にて岩肩彦と名を伝えし
味鉏高日子根命ハ阿波女神ノ御夫ニテ粟国造粟直凡等之父神也。名東 名西 板野 阿波 勝浦 那賀 海部等 七郡本来ノ人種ハ皆此神ノ氏子ナレハ何レノ人モ詣テ来リテ此神石ヲ拝スヘシ
今に伝える神山の笑子岩。高根山にあり、高根山が高根山と呼ばれる所以です。高根山は「(味鉏)高日子根山」。なのです。
大宜都比売命が夫である味鉏高日子根命(事代主神)を敬うために作製を指揮した伝承がありますが、記録では岩肩彦が行ったようです。
この神像は粟国造本館の真正面から拝することを前提に作製されたとのこと。
 
 
さて、ここからは古跡のお話。
粟國造家の本館は下分上山村に存在したそうです。明治期には粟生名に國造屋敷ノ跡の古傳が残されたとされます。
ま「阿波国(後)風土記」には上角名にも國造館の伝承が記されていたそうです。
 
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伝承にある粟國造本館から大粟山の御社に通うのには一里余りもあり、大野地(大埜地)名の川淵に坐す葛倉宮で腰を掛けて休憩したとされています。
その伝承が腰の宮となり、現在では葛倉宮を合祀し、「えびす(事代主神者粟國造粟凡直等之祖)」伝承を残すものであります。

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大野地名葛倉宮ト云 祭神ハ決テ「葛木男神」也
上角名「津々姫明神」ハ「葛木咩神」也
そして驚くことに葛倉神社の祭神は「葛木男神(かつらぎおのかみ)」。葛城ということは鴨氏の痕跡も出てきました。
 
話を戻します。
腰の宮から川沿いを行き、上角名の御装束谷より大宜都比売命が御鎮座する大粟山の頂上たる天邊之森と云われた上古の社地に向かいます。大宜都比売命の御社、この場所もある意味 國造館と考えてよいでしょう。

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装束谷とは大粟山の東に位置し、南から北へ流れていた谷の事であります。この谷は國造家が神祗に際に装束を身につけて國造家から通行した唯一の通行路でありました。
 
「御社ノ前通行ノ人ニ馬竹駕雨天之砌笠杯着シ通行決テ不相成大ニ迷惑仕候云云」 
 
とあったようで大粟山付近の道は馬上による通行不可、雨天笠を被って通行不可で近隣の住民は迷惑を被ったようです。

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しかし、これは大宜都比売命の御事ではなく國造家之事也とあることから粟國造家末裔達が大宜都比売命の神威を拝借して規制をひいたことが記されております。

粟国造家の館に関しては様々な伝承が残されていますが、国造家が祭祀や行政を行った場所は全て国造館というようなニュアンスなので全てを確認するのは難しいと思います。
その中で粟国造家本館が粟生野に存在したこと、そして本館から大粟山山頂部に鎮座していた大宜都比売命の御社へ決まった道を使用して通っていたことを確認することができるのです。

いろいろと古傳がでてきて阿波女社宮主系の情報から様々な内容が分かってきました。

次は佐那ノ縣こと佐那河内村の伝承に絞ってみようかな。。。