百鬼夜行になった一宮長門守成祐
夜行さん(やぎょうさん)とは、阿波國(現・徳島県)に伝わる妖怪。長宗我部元親に謀殺された無念から死後亡霊となって現れた一宮成祐と伝わる。「神領村誌」によれば、神領の谷地方では旧暦の大の月のおこもりの夜は、外で馬の轡(くつわ=馬の口にはめる金具)のジャンジャンと鳴る音が聞こえても、決して外を覗いたりしてはいけないと伝えている。それは一宮城主 一宮長門守の亡霊、夜行さんが首切れ馬に乗って高根の悲願寺に参っているのだという。
はい。今回はかなりナナメから入りました。
一宮長門守成祐の逸話を中心に阿波一宮氏を説明したいと思います。
【阿波一宮氏の始まり】
其後、足利義満公の命を蒙り、延元三年(1338)に長宗は阿波一宮城を築き拠点とし、その後、嫡子である成宗にその職を譲り、以後代を重ねて戦国時代に至る。(※ 南北朝時代での一宮氏の動向も大変興味深い部分はありますが長くなるので割愛します)
【一宮氏の戦国後期の当主は成祐】
三好氏に属して各地を転戦。永祿5年(1562年)の久米田の戦いにも参陣。大将である三好実休が戦死する敗戦となったが無事に撤退に成功している。しかし、長慶の死後には三好氏の勢力が衰退し、三好長治が当主となった頃には長宗我部氏に鞍替えした。天正5年(1577年)から天正8年(1580年)にかけて勝端城を巡って長宗我部氏と同盟を結び十河存保と争奪戦を繰り広げている。以後も、長宗我部氏の四國統一戦に従ったが、1582年11月に三好康長に内応して織田方に寢返り、中富川の戦いの後で再び長宗我部側に降參したが、長宗我部元親に咎められて切腹を命じられることになる。
【一宮成祐の誤算 長宗我部元親との同盟】
一度孤立した成祐には長宗我部元親しか頼る者がいなかったようだ。成祐の心を見据えて阿波国の内紛に乗じて策謀を敷いた長宗我部元親は、下八万夷山城中にて阿波国経営の布石を敷く為にさらなる策謀に取り掛かったのである。
(現在は緑地になっている下八万 夷山城跡)
第二のターゲットは一宮成祐。
天正十一年一月十七日に元親は一宮城主 長門守成祐に急ぎの内報ありと夷山に呼び寄せ、同行した弟、主計頭と家来の星合六之進と共に謀殺されてしまう。この一宮成祐の死によって一宮氏は十二代で滅んでしまった。儚くも謀殺された成祐は現地 夷山城の傍らに葬られ、現在もその墓は確認することができる。
(一宮成祐の墓はアパートの敷地内に残されている。現在の墓は大正期に一族の者が建て直したもの)
乱世における武将の心理を洞察できなかった一宮成祐。この自らの甘さを悔いて魔道の者に堕ちたのかは知る由もないが、いつからか首切れ馬に跨り悲願寺へ。なぜ悲願寺なのか謎は解けていない…
大晦日、節分、庚申の日、夜行日(陰陽道による忌み日。正月・2月子日、3月・4月午日、5月・6月巳日、7月・8月戌日、9月・10月未日、11月・12月辰日)は魑魅魍魎が活動する日とされて夜歩きを戒める日とされた。元来、夜行日とは祭礼の際に御神体をよそへ移すことをいい、神事に関わらない人は家にこもり物忌みをした。その戒めを破り神事を汚したものへの祟りを妖怪・夜行と呼ぶようになったとの説もある。
考えてみると、粟国造 粟一宮大宮司家より一宮祭祀・祭官を奪取してから十二代、常に争いを宿命付けられた一族の一宮氏。
神事を汚したものへの祟りを妖怪・夜行と呼ぶようになったとの説もある…
この部分は非常に意味深なところである。
大宜都比売命の祭祀・祭官を奪取したことを指しているのかはわからない…
【エピローグ】
成祐が殺害されたのち成祐の弟のひとりである光孝は讃岐国水主に居住しており、その子光信の時に蜂須賀氏が阿波に入部した。
(一宮城本丸跡)
(大宜都比売命を祭祀する一宮神社)
(歴代の一宮城主を祀る一宮城跡の若宮祠)
現在、笠原氏が一宮神社で大宜都比売命を祭祀している傍ら、夜行さんの鎮魂を行っているのかは知る由もない。