awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

三好長治自刃の地、今 長原と呼ばるるなり。

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三好長治(みよし・ながはる)1553~1577

三好一族。三好義賢の子。十河存保の実兄。幼名は千鶴丸。通称は彦次郎。阿波守。阿波国勝瑞城主。母は阿波守護・細川持隆のもと側室で、大形殿とも小少将とも呼ばれた女性である。母母三好義賢と深い仲になり、天文22年(1553)に持隆が義賢に討たれたのちに義賢の妻となった。このため、長治は持隆の遺児・細川真之の異父同母弟という続柄である。
永禄5年(1562)3月、父・義賢の死によって家督を相続した。永禄7年(1564)に畿内統治の実権を握っていた三好氏惣領・三好長慶が没したのち、求心力の低下を憂えた三好三人衆松永久秀らは権力の復活を企図する将軍・足利義輝の排除を画策。三人衆らが義輝を殺害(室町御所の戦い)したのちの永禄9年(1566)、傀儡の将軍を立てるべく家宰の篠原長房の補佐を受けて足利義栄を奉じて上洛し、摂津国富田普門寺に入る。この義栄は永禄11年(1568)2月に将軍位に就くが、同年9月に病死。加えて尾張国織田信長が義輝の弟・義昭を奉じて入京したとの報を得ると、本貫地の阿波国に逃げた。
義賢の死後、母は篠原一族の篠原自遁との醜聞が阿波国に喧伝されていたが、それを長房より諌められた自遁の讒言を受けた長治は長房と反目するようになり、天正元年(1573)5月、異父兄の細川真之と共に長房を阿波国上桜で討った。
しかし阿波国を実質的に統治していた長房を誅殺したことで領国経営は安定を欠き、天正3年(1575)9月には長宗我部元親の侵攻を受けて海部城を奪われ、天正5年(1577)2月には大西城(別称を池田城)をも落とされた。
この間の天正4年(1576)には不仲となった細川真之が長宗我部氏に降り、その真之と天正5年3月に阿波国荒田野で戦って敗れ、別宮浦にて自害した。25歳。 

今回は三好長治についてです。昔から因縁、因果応報という言葉がありますが、これに沿う三好長治の伝承話をひとつ。おっと、、、その前に三好家因縁の始まりを語らなければいけません。三好長治という武将、複雑な因縁が絡まった生い立ちだったのです。

其の昔足利尊氏卿より細川頼春(阿波の細川家の祖なり、又今の肥後細川の祖)四国の管領職とす、其の後、文和の頃、京師四条大宮にて楠家と戦て敗死す、依て阿州板野郡萩原村高照院に帰葬る、今に其の石碑あり、其の子孫相続して同郡勝瑞村の館に住し給ひ、阿讃淡三州を旗下とせり、細川讃岐守持隆の時に至り、家臣三好筑前守入道海運の二男豊前守義賢(長慶の弟)権勢盛なりしに、持隆折節勝瑞の北なる龍音寺に入り給ひしに、細川殿に恨ありとて三好は上郡表の枝族等を催し、多勢にて不意に攻討ちしかば、持隆為方なく自殺し給ふ、時に天文二十一子年八月なり。
然るに持隆の側室小少将殿と云ふ京上﨟の腹に男子一人出生し(後に細川掃部頭直之と云、幼名六郎)勝瑞に住し給ひしを美婦なりければ、豊前守後には是を取て己が室とす、然れども主君を殺したる天罰を恐れしにや、豊前守は二十七歳にて法躰し実休と称す、此の小少将の腹に三好長治、同存保を誕生す、其の後年を経て泉州久米田の戦は未だ始まらざるに、大将実休陣取し牀机に掛り居たりしに、流矢来て実休の胸板を射通され死す、細川殿を殺せし十一年後なり(久米田陣は永禄五年三月也)是より前実休の弟安宅摂津守 夢中に細川殿の仇を報夢と見しとなり、是は重恩の君を殺したるには天罰の遅かりしなり…

これより幾年か過ぎ、青年に成長した三好長治は、主君筋で異父兄である細川掃部頭殿を退け、勝瑞の館と称して自らが細川家の跡を継いでいた。

f:id:awa-otoko:20170603214242j:image(長原 豊岡神社)

天正四年子の春、板野郡笹木野で鷹狩りをしていた長治は獲物が少なくとても苛立っていた。東の川向い茅原 (現在の松茂町長原)へ渡りたいが、近くに舟はなし。そんな時川向いに舟と農夫を見つけ、長治はその農夫に舟とともにこちらへ来いと呼び掛けさせた。しかし、距離が離れていたため農夫は殿の狩り障りがあると呼び掛けられたものと推し、草の中へ身を隠してしまった。これに長治は大いに怒り、侍に川を泳ぎ渡らせ舟を持ち寄らせ、長治自ら向かいの地に渡り、先ほど身を隠した農夫の探索を命じたのである。

多勢に無勢。農夫は呆気なく捕縛。恐怖のために震えながら「殿の狩りにお目障りになるやと思い、その場を掃けた次第でございます。」と、そやの理由を伝えたが、大いに怒る長治の心に届かず、近侍二名に農夫の両手を引き張らせ、自らの脇差しを抜いて農夫を大袈裟に斬り殺したのである。

f:id:awa-otoko:20170603215111j:image(長治自刃の地にある南無阿弥陀仏と彫られ石碑)

f:id:awa-otoko:20170603215353j:image(石碑裏)

 

その翌年 天正五年丑の春、長治は異父兄の掃部頭殿を陥れるため、秘密裏に勝瑞の館を出て仁宇谷へ向かっていた。長治の隙を窺って謀反を画策していた一宮長門守成祐(長治の叔母婿)と、伊沢越前守が長治の背後より攻めるという情報を入手した長治の軍勢は混乱して散り散りになってしまった。落ち残った近侍と長治は、渭山(現在の城山)まで引き帰り、淡路の安宅氏に匿って貰うことを計画する。土佐泊 森志摩守へ助任川まで舟を手配するように依頼した。

運悪く手配された舟は助任川に入るところを間違えて佐古川に入ってしまった。長治は是非なく陸行にて鳴門撫養まで赴く計画に練り直し、笹木野の東の洲を落ちていった。この時、舟衆の密告もあり、一宮と伊沢の大軍が押し寄せ、近士の姫田、佐渡、浜、隠岐は長治を護って討死した。農民の家で隠れていた長治であったが最早これまでと自害を決行したのである。長治はこのとき、辞世の句を残している。

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みよし野の 梢の雪と散る花を とや 人のいふらむ」。(三好長治:みよし ながはるの名を句に含めた粋な辞世の句である。死際にこんな余裕があれば逃げとおせたのではないかと考えるのは私だけか?!)

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奇しくも、この前年 天正四年三月廿八日は長治自らが脇差しを抜いて農夫を斬り殺している。翌天正五年の同月同日に同じ場所、農夫を斬り殺した脇差しで自らの腹を切ることになるとは、誰が予測できたであろうか。これを因縁と言わずして何と言うべきか。

長原の中程より北の松原の中に小さな祠を建てられ今も自害した長治の霊を慰めている。

それ故、長治(ながはる)自刃の地は、長原(ながはら)と呼ばれるようになったと云う。