awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

大粟山庄の祭官 田口氏とは??

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(粟国造本館跡:推定)

田口一族は宮主と称し国造家と称して南北朝の初頃まで大粟山庄で大粟神の奉仕を行っていた。

 
平城天皇の大同三年五月九日に左少弁従五位下 田ノ口息継が阿波国司に任ぜられ、子孫が公領の荘園化とともに阿波に土着し豪族となったのが始まりです。

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名西郡桜間城を本拠地として名西山分大粟山に勢力を伸ばし、埴生女屋神の祠官を兼ねた頃から威勢が強くなり田口氏が奉仕したことから田口神社とも称えられるようになったのであります。

 

 

田口氏の勢力は平家滅亡により共に衰えましたが、大粟山で国造家として一宮大粟神、即ち大宜都比売命の祠官として奉仕にあたりました。
しかし穏便な生活は長く続かず、祭官奉仕している間に鎌倉幕府から派遣された佐々木氏が承久の乱に勤めて滅び、小笠原長清が代わって守護となったのが滅びへの道に続くのでした。

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 (大粟山周辺)

小笠原長経、長房、長久と伝え、四男小笠原宮内大輔長宗が一宮大粟庄の地頭として阿波下半国を統治したした際に一宮大粟庄の東部に城を築いて一宮城と称しました。後醍醐天皇に仕え南朝の為に活動するにあたり、一宮城後方を脅かされる恐れがあるが故に大粟山へ攻め入り祠官家を滅したと考えられるのです。

 

 
この後、宮内大輔長宗は大粟山信仰を引き継ぎ一宮大粟姫の祠官となって大宮司を称したのは皆の知るところであります。
思うところに大粟山庄から始まった大粟神信仰は上一宮大粟神社に引き継がれましたが結果的には一宮(小笠原)家も長宗我部元親により滅びの道を歩むことになります。

 

 
阿波最古の神社の一つであり、粟を植え農耕をすすめられてから国営に携わり、粟の国を繁栄に導いた神のご神威からか祠官たるものは武将として豪なる人物を輩出しました。

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(一宮神社)

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(粟国造本館跡を望む)

上一宮大粟神社と分祭した一宮神社とともに名西郡名東郡の大社として今も尚変わることなく民衆の信仰を集めています。

元享三年(一三二三)三月廿日長講堂領阿波国一宮大粟、三好両郷為勅願料所可被相伝云… 

とあり、往時の状況が示された一宮大粟庄の記録はこれ以外になく庄の起源、庄官などの情報は明確になっていません。しかしこの田口氏の祭官家流れをくむのが粟飯原氏であることは昨今の古文書の記録から段階的ではありますが次第に大きくなってきております。

 

 
粟飯原氏だけにこだわらず、田口氏、河人氏、櫻間氏、有持氏… こちらの氏族も深く調査する必要がありそうです… はぁ=3(深い深いため息… )