阿波三好氏は住吉神社の祭官家
阿波三好家は清和天皇からの出自で本姓は源氏である。阿波国との関わりは、小笠原長清が承久の乱に源頼朝に従い阿波の守護に補せられたことから始まる。三好家は名門小笠原氏(信濃源氏)の庶流とされ、鎌倉時代に阿波守護であった阿波小笠原氏の末裔であり、阿波三好郡を本拠にしたことより三好氏を称した。
(勝瑞城趾 勝瑞義家の碑)
(勝瑞義家っていう人の碑じゃねぇっすよ!細川氏と三好氏のことが記された碑です。)
阿波の守護に任命された小笠原長清。其の子 長経は土御門上皇を土佐より阿波へ迎えた。長経の子 長房は郡領平盛隆を滅ぼし、長房より長久、長義を経て義盛に至り王事に勤めて功名があり軍忠状を賜わり、暫くは南朝に仕え忠勤に励みますが南朝が不利になり、細川氏が室町幕府内でも勢力を拡大し強大化するとそれに服した。阿波では細川氏の庶流の一つである阿波細川家が代々守護を務めたが、三好氏はこの阿波細川家の被官として勢力を伸ばしたのである。
(勝瑞城趾 見性寺)
この三好家について興味深いのは住吉村 住吉神社の神官を務めていたこと。住吉神社は過去にも記載したように表筒男命、中筒男命、底筒男命、神功皇后の四柱を祀り、正安二年七月摂津住吉の津守國房の奉祀する處として由来頗り、古し社寳に住吉幽考秘記があり、右大将 源頼朝の置く處と傳られたと傳わります。住吉神社は三好氏旺盛のとき、領主と神官を兼ねたる大社にして三好義賢に祠職たりき、現時の社司は其末流なりと記録されているのであります。
(住吉神社)
これまでの調査から解ってきたのは信濃から阿波に(戻って)きた小笠原一族は領地領域を拡大するのは勿論のこと、古代から祭祀されていた阿波の古代神の祭祀権を掌握することに注力したようです。(小笠原一族末流である一宮氏も同じ動きです。)勝瑞城から程近い神社は数々あれど、なぜ住吉神社の祭祀権を三好家が掌握したのかということです。源平合戦の折に義経が住吉神に武運を祈り、結果的に御利益があったので頼朝の指図なのかもしれません。詳しい経緯は住吉神社の社宝である「住吉幽考秘記」記載されているのかもしれないですね。
さて、久しぶりに投稿してこれだけの内容では物足らないと思いますので、阿波で有名?な三好長治にクローズアップしてみたいと思います。上記にある三好義賢(実休)の長子でもあります。それでは資料を転記しましたのでどうぞ。
三好長治は阿波の屋形彦次郎と称す。父の三好義賢は主君である細川持隆の寵妾 小少将局と通じ、相謀て持隆を殺し細川氏に代わり軍国の政を専にするにあたり局を納れて室となし、名を大形殿殿改む。大形殿は三好義賢の子を産む。長治と存保と云う。長治、性暗愚にして酒色に溺れ政道に心を用いざるを以って大いに民望を失い一族郎等叛く者多く、三好家の衰頺基極に達するに至る。長治の臣 篠原自遁は寵を恃んで威力を弄び、密かに長治の生母大形殿と通じて聲色を恣にす、其姻戚篠原紫雲之れを坐視するに忽びす事に托して諷諫(ふうかん)し、自遁の毒舌に振れて上櫻城に退き自殺せる。茲に於いてか三好家の一族之を憤らざる者無く、大形殿の持隆に侍して生めりし掃部頭眞之を奉じ、細川家の遺臣と謀り功名心燃ゆるが如き一宮城主長門守成助を謀主とし総勢二千余騎先つ長治の近習篠原玄蕃亮を今切城に攻めて之を屑る。長治之を聞きて驚愕爲す處を知らず急使を土佐泊なる森志摩守に馳せ淡路へ渉る船を艤(ふなよそおい)せしめ、自からは暗夜に乗じて城を出で、約束の場所なる助任川に来りしに船誤りて佐古川に入りしため之を求めて得ず遂に天明に至り、止むなく別宮浦に出で土人を召して急ぎ淡路に渉るべき船を命ず、土人中叛いて敵に通ずるものあり、須曳にして大軍殺到す、長治漸く逃れて長原浦に走り漁家に潜みしも、追兵のもとむる處となり従臣と共に自殺す。年僅かに二十五歳天正五年三月二十八日なりき、村民之を憐れみ祠を建てて之を祀り若宮神社と号す。
(三好家当主の墓)
阿波三好家は長治の自殺より後裔に至っては遂に知るところなしと伝えられているものの実際は存続しております。小笠原長清より長経、長房、長久、長義、頼清、頼長、頼慶、慶信、慶長、長輝、之長、元長、長慶、義賢、長治、義明、長清、義房、友時、光盛、十兵衛、義右衛門、源右衛門、四郎右衛門、彌三郎(四郎右衛門と改称)、増蔵、五藤太、友五郎…
やっぱり三好家を語るのであれば長慶あたりを阿波の伝説と絡ませれば面白いでしょうね。残念ながら長慶のネタの持ち合わせは滝寺くらいしか無いですね。また機会があれば武将ネタを書きたいと思います。
んー、阿波古代史ネタも貯まってきていることで、そろそろ古代史ネタに戻らないとね。