awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

犬伏左近と犬伏城。主人赤沢信濃守も全部調べてしまえ!!

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犬伏塚穴
松坂村犬伏諏訪神社の裏に當り雑樹欝然たる丘陵あり、其西邊に塚穴あり、南に向ひ北に延ぶ、入口廣く中程は稍狭くなりて、室の隔てらしく奥の室又廣し、其室の極まる處一坪有餘の青石を建てて土の崩落を防げり、内部両側は總て天然石の方形なるものにて築き、其の間隙は石片或は小石を以て塞げり、又天井は驚くべき大石を用ひ、廣さ疂一枚より三枚敷に至り、僅四枚にて奥行三間半程を覆へり、長さ四間余幅一間許ありて四尺乃至七尺ありしが、現時無殘に破壊し去りたるは惜むべし。

という訳で犬伏の諏訪神社、塚穴跡に行ってまいりました。

f:id:awa-otoko:20160827232347j:image(犬伏諏訪神社

f:id:awa-otoko:20160827232413j:image(犬伏城跡地に祀られた地神塔)


この犬伏塚穴には岡上神社の塚穴同様に貸し椀伝説が残されています。また、この丘の上に家を建てると凶事があるとかでこの一区画だけ取り残されているとのこと。所謂「くせ地」として伝承されている訳ですね。

f:id:awa-otoko:20160827232427j:image(犬伏塚穴跡)

この犬伏諏訪神社と塚穴跡がある一帯は犬伏城跡でもあります。(こちらは城は白で逆ですが。)犬伏城主は犬伏左近。以前に拙ブログで投稿した「大富彦神社」の御祭神でもあります。 


ここらの内容はかなりマイナーなので、専門に調査している方しか知らないと思いますが犬伏左近には赤沢信濃相伝と言う主人が存在しました。

f:id:awa-otoko:20160827235628p:image(赤沢信濃相伝像)

赤沢信濃守は犬伏左近を含めた赤沢家十二衆という組織を統括し、信濃守自身も三好家のため尽力を注いでいたのであります。

 

赤沢家十二衆と板野郡の城

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板西城主: 赤沢信濃相伝
板西城三人衆: 赤沢出羽守、坂上備前守、安芸飛騨守
大寺城主: 大寺松太輔
西分城主: 新開右近
矢武城主: 赤沢美濃守
七条城主: 七条孫四郎
椎ノ本城主: 板東紀伊
下庄: 阿部采女正(うねめのかみ)
高輪城主: 高輪出羽守
新居城主: 赤沢鹿之丞
犬伏城主: 犬伏左近

こちらの城の配置を見るところ、三好氏の居城である勝瑞城を守護するにしてはかなり西側を強固にしている感が伺えます。(長宗我部侵攻を意識したた配置?)

 

あと重要なところでは、赤沢信濃は本来「小笠原相伝」という名であって小笠原家に強い所縁があった方ということですね。(後述)

f:id:awa-otoko:20160827233358j:image(愛染院内 赤沢信濃守廳廟)

f:id:awa-otoko:20160827233417j:image(わらじの紐が外れたのが赤沢信濃守 死の要因)

f:id:awa-otoko:20160827233427j:image(現在では脚の神)

赤沢氏
赤沢氏は小笠原氏の庶家であり信濃を本拠としていたが、延徳3年(1491年)に一族の赤沢朝経が室町幕府管領細川政元に外様の内衆として仕え、その養子・長経も阿波細川家の細川澄元に仕えた。赤沢宗伝は長経の子孫、又はその名跡を継いだと思われるがはっきりとしない。また、弘治元年(1555年)には、赤沢本家の赤沢経智、経智の子・長勝、貞経も甲斐の武田氏に信濃を追われ、信濃守護の小笠原長時と共に小笠原庶家の三好長慶を頼り上洛している。

赤沢信濃相伝
年(1562年)3月、久米田の戦いにおいて実休が戦死すると、上桜城主の篠原長房、木津城主の篠原自遁と共に出家し、その後、実休の子・三好長治を重臣として補佐した。

元亀4年(1573年)5月、篠原長房が主君・三好長治、十河存保(長治の実弟)、阿波守護・細川真之(長治の異父兄)により上桜城を攻められ自害する(上桜城の戦い)。この時、長房と親交が厚かった宗伝の板西城も攻められている。その後、宗伝は『紫雲(篠原長房)の討伐は以っての外だ。忠節な武士を討つ事によって三好の天下も終末が近い。』と嘆き、板西城を捨て3年間高野山へ引篭ったと伝わる。天正4年(1576年)、三好長治も細川真之と争い戦死し、十河存保が三好長治の跡を継いだ。

天正10年(1582年)9月、宗伝は、長宗我部元親が三好存保(十河存保)の勝瑞城を攻めた中富川の戦いにおいて、一族郎党を率い三好方として奮戦したが討ち死にした。四国八十八箇所霊場、第三番札所、金泉寺奥の院の愛染院 (板野町)に廟が祀られている。(Wikipediaより)

という訳で今回は何を伝えたいかというと、

中世では板野郡も三好郡同様に大宜都比売命に所縁が強い小笠原家系統に統治されていたのではないのかということなのです。

 

古代の話になりますが、地続きの板東では葛城系統が統治していました。地理的に深く入り込んだ湾を形成されていたことから那賀(長)の海人族が入り、氏族が混合されたことも考えられるでしょう。(板野郡:板東と板西の境目では富(臣)が含まれている姓が多いこと多いことw )

当地では上記の葛城や登美の存在は薄いことから、鎌倉・南北朝時代の騒乱期に統治氏族の大きな入れ替わりがあった事が想定できます。

 

空海が京に持って帰った稲荷大福神(一宮大明神・葦稲葉神・岡上の神による三神混合の神)。そのうちの二神である「葦稲葉神」、「岡上の神」は板野郡板西に鎮座しています。こちらの二社も当時の統治者が祭官となって奉仕していたと考えても良いのではないでしょうか。

勿論、赤沢信濃相伝と犬伏氏も二社の祭祀について何らかの情報を得ていたことは疑いないものであることから、御方達も調査する必要があると思います。

いたるところの山裾に古墳が造成され、古代と中世の氏族の交わりが見出せない板野郡板西。今回はちょっとしたヒントを見つけたのかなとか考えています。