男狭磯の祠はどこにある?(阿南市富岡 泣石・海士石)

阿南駅から西南へ約800㍍、津乃峰参道の西側に泣石という大きな岩があります。
今では小さい堂が建てられ、泣石地蔵(泣石大師、泣石観音とも… )として夜泣きをする子供があると願掛けすれば不思議と止むと云われております。


今では知る人も少なくなりましたが、泣石には次のような伝承が伝えられている次第でございます。
天正年間、長曽我部元親が大軍を率いて阿波に浸入したとき、豪勇をもって知られた新開遠江守道善が富岡城に拠っていた。
城主は勇将、城は北に琴江川、東に湿地を利用し、堀の中に水を満たせば海の中に亀が浮いたような難攻不落の堅城であった。
富岡城を陥すことが難しいと考えた元親は、道善に一時和議を講じて丈六寺に招いて酒席を設け、打ち解けたときを見計らって元親の伏兵が道善を囲み、少数の家来とともに謀殺したのである。(この謀殺の状況は現在も丈六寺の血天井でうかがうことができる)
この悲報を受けた道善の奥方は住みなれた富岡城を捨て、供を連れてこの石まで避難した。
避難した場所から炎々と燃えた城を見えたこと、これからの行く末、心痛と疲労でその場で泣き伏しながら一夜を過ごしたと伝わっている。
奥方は才見の土居氏を頼ったのちに大潟から舟で京都に上ったとも、また福井村の後世山へ行ったとも伝わる。
その涙がこの石にかかったので、これを「泣石」と名付けられたと云われている。


(牛岐城は別名富岡城 現在イルミ開催中!)
泣石についての伝説はもう一つあります。
千六百年前允恭天皇の時代、この付近は一面海で赤石の海と呼ばれていた。
ある時天皇が阿波路(淡路島)で狩りをしたところ一頭の獲物もなかったので、陰陽師に占わせると「赤石の海の底に光る物があるから、それを取って島の神に祭れば猟がある」という。
天皇は急いで付近の海士(あま)を召し集めた。
召し集めたものの、深くて誰も入る者がなかった時に男狭磯(おさし)という者が海へ飛び込んだ。
なかなか浮かんでこず、皆が心配している時に大きなアワビを抱えて浮かんできたものの、男狭磯は既に息絶えていた。
アワビの中からは桃の実ほどの真珠が出てきて、これを神に祭るとたちまち沢山の獲物があった。
天皇は男狭磯を深くあわれみ厚く葬ったと伝わる。
男狭磯の飛び込んだ岩は「海士石」と呼ばれ、泣石の○○○㍍の○○○にある。
付近では慶応年間まで「オサシさま」と呼んで神様に祭り、今でも和多都見之命が祭神として祭られている。
男狭磯の妻と子が泣石のところで泣き悲しんだことから、この石を「泣石」といわれるところへ、たまたま新開道善の奥方が悲運に会い、この場所を通りかかったことに関連して二つの伝説を持つ悲しい石なのである。
※注: 海士石の位置は敢えて伏せております。
こちら、鳴門にも同じような伝説が残されて男狭磯の墓がございます。



泣石を探しに正福寺へ。


泣石はない…。
続いて阿南公園 八幡神社へ。




あやしい祠と巨石がいっぱい。

八幡神社にご挨拶してから散策を続行。


泣石大師か?違うようだ。
やっぱりない…
少し南にある天満神社周辺も散策。

某パチンコ店前の祠か?

違う…
またまた事前の下調べを怠ったために現地で混乱する羽目に。
結局、帰宅してから調べなおすと富岡○○○の前に泣石観音があるらしいではないか…
泣石の位置を確認すれば海士石はもう見つけたも同然。
なんでこんなに躍起になっているかというと、允恭記に記された赤石とは現在では明石になってしまっていること。
(難しいですが)この阿南から小松島市にかけて赤石ということがこの「海士の男狭磯」伝説から実証できれば、ちょっと阿波の古代について認識が変化するのではないか。などとオーバー気味に考えております。
次に阿南に行ったら海士石、この目で見てみたいと思います。
確認したら追記して写真もアップしまーす。
追記。
泣石… 確認しました。
泣石観音になっております。


そして肝心の海士石…
こちらは文献に記されていた位置を確認しましたが、宅地にした時に撤去されている感じが。。。


泣石は阿南市富岡公民館のすぐ前にあります。
興味がある方はどうぞ。