宇奈爲神社の祭神は建田背命?(宇奈爲神社)


今按阿府志に木頭谷奈井瀬村にあり 俗に十二社権現と號す奈爲ノ瀬村は宇奈爲の上略なり 此邑里正の先祖を木頭忌部正重と云 此家に康正年中の文書あり 當家は永禄年中 三好大状記に宇奈瀬殿と記せり 元亀の田文と云ものにも同じとあるもの宇奈爲神社所在と證とすべし 但し十二社権現は後に祭りそへたるものと見えて本社と云ふは別段なれども却て十二社の方大きく造れり 今是社域をすへて十二社と云ふ


宇奈爲神社でございます。
新たに入手した明治期に記録された文献から耳より?な情報を入手致しました。
今按阿府志に祭神稻飯命と云るは宇奈爲と音近きを以てなり
阿波志に宇奈爲は即 海居也 其神恐綿積命と云る海居の説信じがたし
又式社略考に舊事紀を引いて建田背命次建宇奈比命と云あり 此命を祭りしにもあらんか 宇奈比と宇奈爲とかな違へればよりがたし 神代巻にいはゆる天之涥名井によしありて熊野神を祭れるにはあらざる疑
宇奈爲神社は建田背命か建宇奈比命、または建田背命と建宇奈比命を両方を祭神としているのではないかと疑っている内容です。
ちなみに建田背命と建宇奈比命はご存知でしょうか。
建田背命(たけだせのみこと)
建宇那(奈)比命(たけうなびのみこと)
磯城島連の先祖の草名草姫を妻とし、二男一女を生む。宇奈岐比古命
「先代旧事本紀」尾張氏系譜によれば、五世孫建斗米には七人の子があり、建田背(たけだせ)命、建宇那比(たけうなび)命、建多乎利(たけたおり)命、建彌阿久良(たけみあくら)命、建麻利尼(たけまりね)命、建手和邇(たけたわに)命、宇那比姫(うなびひめ)命とあります。
長男? 建田勢命は最初丹波の宰(みこともち)となり、その後、山城久世水主村(やましろくぜみずしむら)に移り、さらにその後大和に戻ったとされます。
(長くなるので途中を端折りますが… )要は京都府宮津市にある「籠神社」は第7代孝霊天皇の時代、建田背命から始まったものと捉えられているのであります。(時間があれば端折った内容を追記していきますので。)
宇奈爲神社と海部氏の繋がりが見え隠れ…ですね。
(海部氏といえば籠神社ですよね。)



またまたウィークデー。今回も中途半端ですがこのへんで。
わかる人にはわかる特ダネ!でした。