awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

ダレノ墓 あま塚(里浦町 あま塚)

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里浦村城ヶ峯の麓老松の下にあり、元禄年間の改築にかかる花崗石の五重の塔は、名のみの一小宇僅かに之を蔽ひ、塔側には小庵ありて香華をひさぐ、あま塚は海士塚にて男狭磯の墓と云ひ、或は尼塚にて清少納言の墓と稱し、後者につきては殊に牽强府會の説を傅ふるも、本村限村長 村幸八會て「土御門天皇御聖地調査書」なる一書を著はし、あま塚は尼塚にも亦海士塚にもあらずして「天塚」卸ち、畏くも土御門天皇の御火葬地なりと断定し、此考証を以つて畢生の事業とし、今猶専心研究調査に従ひ居れり、其説の営否は今俄かに断定すべからざるも、清少納言の墓は現に讃岐國琴平町にあれば、あま塚を清少納言とせるは誤にて、男狭磯の墓また別に存するを見れば、二者其何れの墓にも非ざるは疑を容れず、大日本地名辞書の著者は曰、里浦は海里の謂なり此地盖し海部の本據にして土御門帝の行宮も此なりしに似たり、按に近時帝陵を擬定して堀江村大字池谷の天王山の下に在りと爲す、然れども里浦の地は古来海部の大聚落にして帝還幸の行在となしたまへるも此浦と想はるれば、形勢の上より推して至當と爲すに足る又御集などに見ゆる御製に参考せば、里浦は即ち其行在所にやと疑はるる節最も多し
⚫︎山陵志に「土御門陵在阿波板野郡里浦」
⚫︎紹運録東鑑「承久三年還于土佐、尋還于阿波寛喜三年十一月十一日、崩阿波、然皆不載葬其於里浦」
⚫︎明月記「天福元年母后承明門院爲帝營金原御堂、移藏御骨焉垵板野郡緣海洲嶼之間今稱撫養荘里浦、是洲中一村落有石塔、土人莫知誰墓也、但歳十月十 一日、即是土御門之御忌、盖方其喪也、至今尚猶置斎奉祀、不失其遺跡、此僅可徴也」
とあり、とまれ世俗一般これを「あま塚」と呼び、嬬女子の尊信尤も厚くして参拝者常に絶えず、殊に毎月舊十、十一日両日は他府縣より賽者も少なからず、古来祠前に通夜するを常とす、因みに清少納言の父 清原元輔は此里海士を領ししことあれば、清少納言の此地に遊びし事は信ずべきか
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現在でも鳴門市里浦町に「観音寺の天塚」清少納言の墓としています。
もう口伝だけで伝わってきているので伝承がごちゃまぜになっているようですね。
そして真新しいお堂なんか作って雰囲気がだいなし。。。
 
話は逸れますがこの「あま塚」のすぐ西側には里浦十二神社が鎮座しており、この地は「蜑屋敷」跡とされています。蜑屋敷の伝承をば。
 
蜑屋敷=海上神
里浦村にあり日本書紀
允恭天皇◻︎四年(紀元千◯五十八年)秋九月癸丑、朔甲子、天皇淡路島に狩す、時に麋鹿猿猪莫々紛々山谷に盈つ、惣ち起きて蠅散し、終日以て一獣を獲ず、是に於て狩を止め、以て卜す、島神之れに祟りて曰く、獣を得ざるは是れ我の心なり、赤石の海底に真珠あり、其珠を我に祀らば、則ち悉くと當さに獣を得べし、爰に所々の白水郎を集め以て赤石の海底を探らしむ、海深ふして底に至ること能はず、唯一海人あり男狭磯といふ、是阿波長村の海人なり、諸海人に勝る、是腰に繩を繋ぎて底に入る、差頃して出でて曰く、海底に大蝮あり其所光ると、諸人皆いはく島神請ふ所の珠、是の蝮腹にある殆き乎と、又入てこれを探らしむ、爰に男狭磯大蝮を抱て泛び出つ、乃ち息絶て以て浪上に死す、既にして海底を測れば、六十尋則ち蝮を割く、實に真珠腹中にあり、其大さ桃子の如し、則ち島神を祀て之を狩す、多く獣を獲たり、唯男狭磯海に入て死するを悲み、乃ち墓を作りて厚く葬る、其墓今存すと云ふ
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(蜑男狭磯の墓)
 
あー、入力疲れた。=3
 
このようにすぐ近くに允恭天皇に命じられて赤石の大真珠を獲って亡くなった長村の男狭磯の墓が存在する訳です。
ちらっと過去に柿本人丸関連で載せましたが、こちらは慶応年間に天神社境内に移し海上神として改めて祭祀され、天保五年に近藤藤利右衛門なる者が蜑屋敷ならびに蜑井戸を伝承するために「里浦蜑之井碑」を建てました。
そして後に天神社境内より練石の壺型の一古墳を移して現在に至る訳であります。
 
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(蜑屋敷跡 蜑ノ井)

awa-otoko.hatenablog.com

 

何を伝えたかったというと現地には「蜑男狭磯の墓」と「あま塚」の二つの「あま塚」が存在しているということなんです。
 
「蜑(あま)」は本来、言葉の音として「海(あま)」、「天(あま)」の意だったと考えられます。が、、、「蜑」であると下級階層の海人の呼び名を意味し、皇族の血縁者である海人は「天帯(あまたらし)」と呼ばていたことから土御門帝の陵の線は消えます。時代も違いますし。
 
ひとつの可能性として考えるのは、里浦村の腕利きの蜑が赤石で亡くなった蜑男狭磯のように祭祀された考えて良いのではないでしょうか。
 
個人的には土御門帝や清少納言の墓というのは可能性としては低いような気がしています。
もちろん清少納言の父である清原元輔の領が里浦だったことで京の都から都人が訪れた可能性はあります。しかし領主の娘を辱めるようなことはしないでしょう。(清少納言の墓の由来は現地に赴いた清少納言が現地人に辱めらることによって入水し、それを哀れみ墓を建立したと伝わる)
 
土御門帝の陵が里浦と書かれている件では、土地勘が無い者が里浦と木津と場所を間違えたのではないでしょうか。(もちろん逆の場合もある訳ですけど。)
 
という訳で里浦村の「あま塚」は里浦の蜑(海人)が祭祀されているのに一票。(あくまで推測ですが)
 
補足として書いておきますが、わざわざ允恭天皇が通説である(近畿圏)の都から阿波にまで狩りに来る訳もなく、長村の男狭磯が阿波に存在していたことから允恭天皇は阿波で政務を摂り、男狭磯伝説の明石は本来は小松島市の赤石なのです。
 
そして允恭天皇が造営した遠飛鳥の宮。小松島市のとある場所に飛鳥宮跡が存在します。(これはまた後日に)
 
そこんとこお忘れなく。。。