徳島城下の往来心得
今回は番外編として古代の話から江戸時代の話に変えてみました。
古代史好きには面白くないネタかもしれませんから、いつもの阿波の古代史ネタ目当ての人は読まない方がいいかもですね。(笑)
阿波は今も昔も水の都。
御山下(ごさんげ)と称された渭津(いのつ:徳島の旧称)は、城山のある徳島を中心に出来島、寺島、福島、住吉島、常三島など、大小さまざまな島によって形成されていましたが、これらの島々を連絡するのは橋であり渡船でありました。
昔の船場付近(現在は右手に阿波銀ホール)
藩政時代、橋では助任橋(長さ七六間半、幅四間四尺)、新町橋(四七間と四間)、福島橋(二四間と三間)、住吉橋(二二間と二間)、出来島橋(一三間と二間半)、佐古橋(八間二尺と三間)などがあり、このほか興源寺橋など小橋が七つ。大岡川にかかった高橋は藩主の御座船通過の際に邪魔にならないようにと橋脚を高くつくったらしいです。
渡船は富田の渡し(渡丁二人)、前川渡し、田宮の渡し、出来島石橋の渡し、福島三頭の渡し、沖洲の渡し(各一人)くらいのものであったらしく、渡船は公営で船頭には年間ひとりあたり三石の扶持米があたえられました。
通行状況を「往来心得」からのぞいてみましょう。
一、郷分(いなか)のものが馬をひくときは、先追いはもちろん長綱でおうことはもってのほか。とくに御城下においては馬の口をじぶんのからだにひきつけて歩くこと。
一、船にのるとき、庶民は武士の乗降を待って乗降し、船中では這いつくばっておること。
一、御城下の渡船はたとえ武士がのっていなくても這いつくばっておること。
一、船頭は武士ののっている船をみかけたら、衝突しないようのりゆき遠慮すること。
一、百姓は乗馬のまま町へ入ってはならない。またいなか道で乗馬のとき、武士とすれ違うことを禁ずる。
一、町筋にてくわえぎせるを禁ずる。
一、夏、町人どもが店先や往来、縁側に涼み台を持ちだすことは武士に無礼をはたらくおそれががあるから禁止する。
一、荷物をになうものもかたよって通行すべし。
ずいぶんひどいはなしでしょう。(苦笑)
多賀勇助なる武士は、常三島の渡船に乗り合わせた小物が這いつくばらず、船のへりに腰をかけていたので無礼打、星川歓太兵衛は出来島から前川への引き船でわたそうとしてのりかけたとき、前川の方で小物が綱を引いて自分が先に出来島に渡ってきたためその場で切り捨てた。
昔、庶民はおちおち往来もできなかったんですね。
たまにこんな感じで番外編もやりますのでよろしくお願いします。(^^)
今日も写真の【オマケ】。
昔の徳島城内(徳島公園)です。
昔の徳島公園内 千秋閣(背後に城山)