椿泊のお多福岩と森家墓所
古代より、沿海部に居住する海民は水上兵力として活躍していました。古代ヤマト政権の時代に日本の水軍を支えたのは安曇部(あずみべ)や海人部(あまべ)、津守氏といった海の氏族たちでした。
中世より阿波で名を轟かせた森家…
阿波水軍を率いた森甚五兵衛の出自もこれにあてはまるのではないでしょうか。
森甚五兵衛
森甚五兵衛(もり じんごべい)という名は代々、森家の当主に襲名され、その当主ごとに甚五兵衛の後ろに名が通常付けられた。森家は、豊臣秀吉により1590年に天下統一される以前から、阿波の水軍の長であった。そのため阿波水軍は狹義の意味では、徳島藩の水軍の意味であるが、広義では、安土桃山時代の頃の蜂須賀家の阿波入國以前の森家の率いる水軍を指す。(Wikipedia:阿波水軍より)
(佐田神社)
森氏の祖先は当国の撫養土佐泊浦に住しその辺を領す。足利公御治世の末には土佐泊の松江の小城に住し家人も多し。尤も森甚五兵衛同甚太夫同宗森志摩守と共に住し海辺に住せる家にて代々船法水戦の妙を得水手を鍛錬し船を操ること飛ぶが如し。又水中の術に委し。天正の頃より御当家へ随順し御船手の将たり。その後文禄年間に朝鮮御征伐の節釜山海その外所々の水戦に船手の軍功甚だ高し。(阿州奇事雑話より)
このように森甚五兵衛と阿波水軍の功績についていたるところで様々に語られております。
よって今回は阿波水軍の話は置いといて、あまり知られていない森家に纏わる伝承をご紹介したいと思います。
お多福岩
家政の虚栄心から他の大名に負けんばかりの巨石をと探した結果、目に留まったのが椿泊燧崎にある目測二万貫もあろう巨石であった。
命令は家政から森甚五兵衛へ伝えられた。そして実行のお役目は甚五兵衛の愛娘於竹の婿 赤沢蔵人正利に委ねられたのである。
正利は海上輸送の計画をたてた。が、、、彼の必死の監励、部下や人夫の懸命の努力も空しく燧崎の地にずっしりと根を据えた巨石は微動だもせず、多くの犠牲者を出しながら遂に期限が切れ輸送することができなかった。
面目が潰れた甚五兵衛は子まである於竹との中を引裂き、正利に追放を命じた。
正利は重圧から重石を担いで椿泊の海に沈み、於竹は哀しみのあまり気を患い夫のあとを追った。
それ故にこの巨石は人々から「お多苦岩」と呼ばれるようになったのである。
(森家累代の墓)
時は過ぎ、「お多苦岩」は「お多福岩」と呼ばれるようになった。於竹の祟りを畏れて建てられていた祠もいつの間にか姿を消した。今も昔も変わらないのは巨石の大きな姿だけである。
はい。お多福岩を確認しましたが移動するという発想がよく湧いたもんだなと感心しました。
秀吉のきまぐれから始まり、蜂須賀のYOUやっちゃってよ的なノリ、そして森甚五兵衛の安請け合い。赤沢正利に至っては本当に気の毒です。運が悪いなと…
甚五兵衛も蜂須賀家政から目をつけられていた節は見受けられますね。
実は同じような計画が同じ蜂須賀家の命で実行された事実があるんです。由岐の大岩(蛙石)を船で名方郡まで輸送したんですね。
こちらはぐーたらさんがブログで挙げられていますのでリンクを貼らせて頂きます。(面白いので読んでみて下さい)
(桜間の碑石)
ぐーたら気延日記(重箱の隅):桜間の碑石
桜間池のほとりにある桜間の碑石(蛙石)もかなり大きいです。(海上を移動させた岩と考えるとさらに大きく感じられるのは私だけでしょうか。)
桜間の碑石とお多福岩を比較すれば、お多福岩が数倍の厚みがあります。そして地にしっかり根を張って一体化しています。
現在は波止場に出る足場になりさがってしまった「お多福岩」です。
とても残念ですね。せめて於竹の祠を残すか、看板くらい設置してもいいものですが。
ひと昔前は阿波水軍の繁栄と赤沢蔵人正利と於竹の悲恋の話で椿泊の観光スポットとして推していたようですけど… 今は見る影もございません。
ちなみに椿泊周辺は奥に進むにつれて道幅が細くなります。自動車でのアクセスはオススメしません。無理せず空きスペースに駐車し、歩きで散策すればかなり面白いものが発見できます。
(椿泊のメインストリート)
興味がある方は是非訪ねてみて、お多福岩の上で歴史の想いにふけってみてはいかがでしょうか。