白檮原宮は土成町 樫原神社
神倭伊波礼比古命(かむやまといわれひこ) 後の神武天皇は白檮原宮(かしはらのみや)で即位しますが、阿波では土成町樫原で即位されたのではないかとされています。

阿波の樫原神社は創建年代は不詳の古社。天保十二年(一八四一)の棟札が残っています。


「土成村史」によると「当社は後方山を負ひ、境内老樹欝蒼たりしが、明治三二年山岳崩潰のため、社殿樹木とも埋没の災に罹りき、今は仮殿を作りて奉祀す。」とあります。
この山岳崩潰については自然災害、故意の人的災害(山肌を発破で)と諸説ありますが、今尚真相はわかっておりません。
明治32年(1899)9月8日、鈴川山の一部が大崩壊し、下手の樫原部落に土砂が流れ落ち、家8棟が埋没し、死者7人、馬1頭を失い、下流の耕地は土砂で壊滅した。
なお、昭和26年に樫原奥地の山地に一大亀裂が発見され、過去の経験から考えて崩壊すれば大惨事を引き起こすことが懸念されたため、土成村は県に実地調査を依頼するとともに、国に陳情し、地すべり予防工事を実施した。
岡の山・鈴川山の崩壊地復旧工事及び関連工事は昭和12年度までにほとんど完了した。
この山岳崩潰から三百㍍下った鈴川神社に仮殿されたままで樫原神社は現在に至るようです。
(鈴川神社は鳥居と扁額、狛犬を残したまま社殿の形跡はない。)


鈴川神社は明治十三年の創建。
山岳崩潰が明治三十二年…
十年単位で計画を進めたのでしょうか…(真相はわかりませんが。)
土成町高尾字熊之庄に「熊野神社」が鎮座しています。


高尾は高倉下(たかくらじ)に、熊之庄は(熊野)に通じ、神邑(みわむら)は御所山の麓部にかかる宮川内(みやごうち)に通じるなど、神武東征の「熊野」の条件を備えています。
また、「熊野」につづいて「宇陀(うだ)」の兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯(おとうかし)は土成町を南北に走る宮川内街道の香川県との県境を鵜峠(うのたおとおげ)トンネルを鵜田尾トンネルと呼んでいますが、ここでも宇陀 = 鵜田の地名が一致します。
このように神武東征 「熊野」の条件の照合だけでも、偶然の一致とはいえない地名が残っているのです。
あぁ… 年末繁忙期の疲れが… _| ̄|○(ガクッ)