宇奈爲神社と大轟の滝(宇奈爲神社)
宇奈爲神社は山奥に鎮座しています。
鎮座地は那賀町木頭字内の瀬1
熊野十二権現を勧請してから「熊野の神々」を中心に祀られており、社名にある「宇奈爲神社」は「奥の院」として(?)中央の神殿である「熊野本宮」よりさらに高い位置の真後ろに祀られています。
(その他の摂社、熊野神の社と宇奈爲の社の位置関係に少し違和感を感じるのは私だけでしょうか?)
さて「阿波志」によれば、海神豊玉彦命の娘である豊玉姫命・玉依姫命を祀り、宇奈爲は「海居」の意味とされ海との関係が深いと云われています。
平安末期の承暦年間(1077~1080)、藤原氏の一族で紀伊の豪族・湯浅権守俊明が任宇の地の領主となり、熊野十二社権現を、宇奈爲神社に勧請し、その後乾元元年(1302)に山伏の不動院性金が住して熊野十二社権現を主として奉祀したことから、宇奈爲神社十二社権現と称するようになったといいます。
平安末期の承暦年間(1077~1080)、藤原氏の一族で紀伊の豪族・湯浅権守俊明が任宇の地の領主となり、熊野十二社権現を、宇奈爲神社に勧請し、その後乾元元年(1302)に山伏の不動院性金が住して熊野十二社権現を主として奉祀したことから、宇奈爲神社十二社権現と称するようになったといいます。
湯浅権守兼行が勧請したのは文明年中(1469~1486)ともいわれ、湯浅権守は後に任宇氏を名乗りました。
しかし宇奈爲神社自体は延喜5年(905)より調査された「延喜神名式」に式内社の一つとして記載されていることから、相当古くから集落が発達していたことが考えられます。
神名帳考證には天正10年長宗我部元親の阿波侵攻の際焼打ちに逢ったとあり、嘉永年間にも火災にあい、現社殿は安政3年に再建されました。明治3年稲飯神社と改称し、明治5年郷社に列し、明治35年に古社名・宇奈爲神社に復したとのこと。
木頭谷奈井瀬邑に十二社権現と云ふあり、奈井瀬は宇奈井瀬の轉語なり、此の邑の里長の先祖を木頭忌部政重と云ふ、百三代後花園院康正年中の古帳を傳へたり、當年まで三百五十年餘に及べり、偖又永禄年中三好大状、元禄年中太田文に宇奈瀬殿と見え、阿波國兵将居城記に宇奈瀬龜之進と出でたるも此家の祖先なるべし、又阿津江といふ所に、神祇峠、祓川などの地名もあり、又十二社権現行在所に怪き橿あり、神代よりの古木にて、影向の橿なりと云ひ傳へたり、故思ふに、里正の祖其所の領主にて、神職を兼帯せしと見ゆ云々。 (式社略考)