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awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

宇奈爲神社と大轟の滝(宇奈爲神社)

 
宇奈爲神社は山奥に鎮座しています。
鎮座地は那賀町木頭字内の瀬1
 
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熊野十二権現を勧請してから「熊野の神々」を中心に祀られており、社名にある「宇奈爲神社」は「奥の院」として(?)中央の神殿である「熊野本宮」よりさらに高い位置の真後ろに祀られています。
 
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(その他の摂社、熊野神の社と宇奈爲の社の位置関係に少し違和感を感じるのは私だけでしょうか?)
 

熊野本宮

伊邪那美命、木津御子命、稲飯命
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熊野新宮

速玉男命、菊理姫命
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熊野那智

伊邪那岐命、事解之男命
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八社宮

田心姫命湍津姫命市杵島姫命、天之忍穂耳命、天津彦根命天穂日命、活津彦根命、熊野伊櫲樟日命
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鎮守社

岩長姫命
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水天宮

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轟祠

組長津彦命、組長津姫命
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牛王祠

須佐男命
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王子祠

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阿須賀社

阿須賀明神
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さて「阿波志」によれば、海神豊玉彦命の娘である豊玉姫命玉依姫命を祀り、宇奈爲は「海居」の意味とされ海との関係が深いと云われています。

平安末期の承暦年間(1077~1080)、藤原氏の一族で紀伊の豪族・湯浅権守俊明が任宇の地の領主となり、熊野十二社権現を、宇奈爲神社に勧請し、その後乾元元年(1302)に山伏の不動院性金が住して熊野十二社権現を主として奉祀したことから、宇奈爲神社十二社権現と称するようになったといいます。
 
湯浅権守兼行が勧請したのは文明年中(1469~1486)ともいわれ、湯浅権守は後に任宇氏を名乗りました。
 
しかし宇奈爲神社自体は延喜5年(905)より調査された「延喜神名式」に式内社の一つとして記載されていることから、相当古くから集落が発達していたことが考えられます。
 
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神名帳考證には天正10年長宗我部元親の阿波侵攻の際焼打ちに逢ったとあり、嘉永年間にも火災にあい、現社殿は安政3年に再建されました。明治3年稲飯神社と改称し、明治5年郷社に列し、明治35年に古社名・宇奈爲神社に復したとのこと。

木頭谷奈井瀬邑に十二社権現と云ふあり、奈井瀬は宇奈井瀬の轉語なり、此の邑の里長の先祖を木頭忌部政重と云ふ、百三代後花園院康正年中の古帳を傳へたり、當年まで三百五十年餘に及べり、偖又永禄年中三好大状、元禄年中太田文に宇奈瀬殿と見え、阿波國兵将居城記に宇奈瀬龜之進と出でたるも此家の祖先なるべし、又阿津江といふ所に、神祇峠、祓川などの地名もあり、又十二社権現行在所に怪き橿あり、神代よりの古木にて、影向の橿なりと云ひ傳へたり、故思ふに、里正の祖其所の領主にて、神職を兼帯せしと見ゆ云々。 (式社略考)
 
さて、このような山奥に奈良時代以前より社を構え、集落が繁栄していた理由として那珂川の利用によるものと考えています。
 
この那珂川を遡ると「大轟の滝」につき当たります。

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ここより伐採した材木を筏にして下流に流し、河口、そして場合によっては海原に出ていたのではないでしょうか。
 
山奥に居住していると中央からの情報は入手しにくく、閉鎖的な環境と考えてしまいますが、逆に下流域の岐(港、停留地)で海人族から最新の情報を得て、自らの集落に持ち帰り提供していたのではないでしょうか。
 
よって当時、下流域で崇拝されていた海の神を当地に祀りあげたと考えたのですが…
 
なぜ「大轟の滝」と名付けられたかは定かではありませんが、以前に投稿した海陽町「轟の滝」と同じ役割を果たしていたからではないでしょうか。

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