awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

高越寺の歴代住職達

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さて、今回は高越山の高越神社とともに鎮座する高越寺の歴代住職の略歴についてちょっとずつですが触れたいと思います。但し自分用の備忘録としての記録なので気の利いたことは書いてないので悪しからず。(情報がない住職も含まれるけど文句は無しでお願いします。)(´Д` ) あぅあぅぁー。

 

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第一世 役小角
役小角は七世紀後半から八世紀頃の呪術宗教者。葛城山に住したが、その弟子韓国連広足(からくにのむらじひろたり)に讒(ざん)せられ、文武三年(699)に伊豆に配流された。その後、鬼神を使役し葛城山と金峯山に橋を架けたなどの伝説が作られている。現在でも高越寺の本尊は蔵王権現である。蔵王権現の像は、頭に三鈷をいただき、三眼・青黒色の忿怒像で、左手は劔印で腰にあて、右手を空中にあげた形である。(awa-otoko的には蔵王権現は石立山(剣山のことな。)の不動明王スサノオ)をはじめとした古の神々を集合体として神つ山(高越山)に祭祀したのではないかと考えています。)

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第二世 真暁
生没年不詳。「当山先師過去名簿」には十禅師(宮中の内道場に奉仕した十人の僧)とあり、これより弘法大師の弟子である真暁のことであるとされる。高越寺蔵「御遺告」には承和ニ年(835)三月十五日入唐求法沙門空海上件を遺告す。承る法師等の中に真暁が含まれている。


第三世 如願
生没年不詳。情報なし。


第四世 慶瞬
高越寺蔵大般若経第九巻、第三○四巻の破損を明徳三年(1392)に慶瞬が修造した記事が残る。中ノ郷にある板碑に「権大僧都 慶瞬」との刻付がある。


第五世 乗澄
中ノ郷(中禅寺)の石碑に第五代 乗澄の名あり。中ノ郷中禅寺付近には大瀧さんとお越っあんが喧嘩して、大瀧さんから投げた石があるが、これは修験者同士の争いを物語っていると思われる。(大瀧山は阿波真言修験の拠点で吉野川を挟んだ忌部修験の拠点であった高越山と対峙している。)


第六世 清誉
生没年不詳。情報なし。


第七世 密厳
生没年不詳。情報なし。


第八世 清円
生没年不詳。穀谷に墓碑あり。


第九世 一常
蜂須賀家政の帰依を受けて高越寺を再興す。和泉国槙尾山寺の僧。中興の祖。中ノ郷 板碑に「中興開山市乗僧正」の記入あり。


第十世 宥範
生没年不詳。情報なし。

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第十一世 宥専
〜正保三年(1646)二月十七日没
寛永十七年(1640)高越権現の神楽銭問題で川田八幡神社 早雲神主との争いあり。


第十二世 宥盛
〜万治元年(1658)六月十日没
実の中興の祖。高越寺と川田八幡神社の争いが再び起こり、裁判では早雲神主が高越大権現から除外されたことになっている。高越寺と川田八幡神社がきびしく対立した裏には、高越寺が神社を支配する別当職を所持していたためであろうと推測されている。実の中興の祖といわれるのは川田八幡神社との争いを有利にし、大坊の土地等を譲り受け寺勢の伸張に尽力したことによる。

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第十三世 宥尊
〜寛文六年(1666)四月四日没
死没の前年に「摩尼珠山高越寺私記」で高越寺の歴史を著す。


第十四世 宥保
正保四年(1647)〜天和三年(1683)
此師始めて生年あり。短命であった。
川田八幡神社別当は高越寺であるにもかかわらず、日假遷宮を神主が行なったため高越寺が藩に不都合を訴え、神主・庄屋が高越寺に詫びたという記録が残っている。

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第十五世 宥海
〜元禄八年(1695)四月二十一日没
此師の時、高越寺火災あり。元禄三年(1690)元旦の晩四ツ時に付火にて悉く炎焼… と住友家記録で付火を報じている。


第十六世 宥証
享保十五年(1730)六月十四日没
宥証師は徳島城下勢見の観音寺の僧、龍厳の弟子。「阿州摩尼珠山高越寺記」を著し、諸堂の再建と共に高越寺の尊厳を其歴史によって示した。徳島城下徳島庵で病死。


第十七世 保道
宝暦四年(1754)三月十二日没
宥証上人は遺言で末弟子海寛を推したが他弟子達は正戒を希望した。藩は容れるところにならず高越寺は無住職となったが。一ケ年後に勢見山観音寺より保道が第十七世として着任した。
無住職時に高越寺を守ったのは両川田村の民であり、高越山上へ十人、山下へ十人百姓が留守をし、責任者として五人組が一人宛あたり、高越寺へは明王院住職が神仏に勤めた。


第十八世 快受
〜明和六年(1769)八月十四日没
此師の時、高越寺本尊を勢見山観音寺にて出開張を行なった。また川田八幡神社にあった大般若経六百巻の欠巻を庄屋の責任で補充し、これを高越寺へ返し、早雲神主による川田八幡神社祭礼には高越寺を支配せず、早雲神主の自由に任せす契約が成立した。


第十九世 快広
〜寛政元年(1789)六月四日没
第十八世 快受上人が明和六年(1769)に没しているにより、此和尚は二十年の在位と思われる。事績不詳。

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第二十世 快任
宝暦九年(1759)〜文政二年(1819)五月七日没
快任師は第十九世 快広の弟弟子。この師の時、旱多く雨乞い祈祷を執り行った。「日中勤めに神前に相向い候処、神前の下、長さ四尺ばかりの金色の蛇出現し、すなわち龍王の垂跡と存じ知り、(略)其夜七つ時より大雨降り終日止まず、感涙肝に銘じ… 」雨乞い祈祷は大成功を収めたようである。


第二十一世 快純
〜天保七年(1836)十月二十五日没
此師、業績不詳。


第二十二世 快典
〜文政十年(1827)八月十三日没
此師の業績は不明であったが、第二十三世宥光師の時代の記録により判明。文政十一年高越寺が川田八幡宮別当職を指引くことに決定したが、約束書取りかわさぬ内に快典は死没。


第二十三世 宥光
〜天保七年(1836)七月二日没
美馬郡脇町大滝寺出身、同町最明寺へ転住し五年勤めたのちに文政十年に高越寺へ赴任。穀谷の里寺を伊澤村の願成寺に売却し山上で住した。

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第二十四世 宥真
文化四年(1807)〜明治六年(1873)六月没
此度御修復之儀御建立所ニ被仰付候運御代々様御判物之写、同御寄附の品々、其他何不寄御由緒、寺領下置候運、寺旧記写、伝来之品々書上帳(一冊の書名)、嘉永二酉二月ヨリ郡役一条諸被仰付御書写等の高越寺の歴史を残す。


第二十五世 良岩
〜明治二年(1869)二月二日没
阿波郡秋月村光福寺良融三従弟。安政六年(1859)十二月に高越寺に赴任。堂宇建立のため寄付を藩内全郡に及ぼす。高越寺記録を著す。


第二十六世 龍快
文政五年(1822)〜明治二年(1869)四月十日没
覚書を残す。諸堂再建のため所轄の山林から用材伐採の願出。建築費捻出のため操人形芝居実施の願出。


第二十七世 快剛
生没年不詳。美馬郡木屋平村に墓あり。
明治元年(1868)神仏分離令が出て、両部神道を奉じる高越寺は、山林没収・五十石の禄返上、神社と寺院の分離という大変動を受けた。先代が明治二年(1869)四月に没したので快剛師が全てを背負うことになった。神仏取分け(神仏分離令)により蔵王権現を高越寺へ引き、天日鷲命の社は早雲神主に渡した。五十石を徳島藩に返上し、十石を交付された。快剛師はわずかニカ年の短い任期であった。


第二十八世 良俊
嘉永四年(1851)〜明治十四年(1907)二月十六日没
神仏分離後の高越寺を新しい方向へ出発させた。穀谷にあった里寺を願成寺に売却し、其の跡地に堂を建てて観音菩薩を安置。登拝できぬ老人婦女子のためを図った。


第二十九世 良範
明治二十年(1887)〜昭和十九年(1944)七月十三日没
千住良俊が山門の建立をなした後を受け、鐘楼の新築をなした。

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第三十世 智純
明治三十四(1901)十二月九日生〜昭和五十七年(1982)七月十四日没
昭和十四年(1939)一月十八日高越寺に火災が起こる。川田町警防団が一里十八町の急坂を駆け上ったが寺の一反半(15アール)が焼け落ちていた。智純師は本堂、客殿、庫𥚃、休憩所、修行大師像、錫杖塔、心経塔を建造した。

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第三十一世 茂昭
昭和十五年(1940)二月二十日〜平成二年(1990)一月十七日没
先代智純師と共に高越寺の復興に努力したが平成二年五十歳で逝去された。護摩堂、休憩所の改築、駐車場の新設、給水施設の設置をされた。また書籍「高越山」を編集した。


第三十二世 茂洋
昭和十五年(1970)十二月二十一日〜平成二十六年(2014)十二月六日没
茂洋師の没については記憶に新しいところであり、関係者の気持ちを汲んでここでの記載は伏せさせていただきます。

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第三十三世 浩円
情報なし(奥の院 蔵王権現の鳥居扁額を書いている人?だよね。たぶん。)


このように高越寺・高越神社は、役小角が忌部大神宮の奥宮である石立山(剣山)より古の神々を勧請して開いた「神つ山(こうつのやま)」であり、約千三百年以上より脈々と続いている聖跡なのであります。三十三世に渡り幾多の困難を乗り越えながら伝わっている聖跡 高越山。阿波では是非一度は参拝するべき場所のひとつですよ。興味ある方は是非どうぞ。(・∀・)

為朝の夢告げ

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どうも。awa-otokoは阿波に来た(?)と伝承される源為朝を追い、過去には以下の為朝関連の記事を投稿しております。

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いろいろ調べておりますとこの白人明神は昔からやたらと神降りや夢告げが多いのですよ。

美馬郡穴吹町口山の白人神社は源為朝を祀り、旧麻植郡木屋平村に入る県道の東側にあり阿波藩家老稲田氏の尊信するところであった。

昭和三十年十一月、「宝を埋めてあるから掘れ。」という源為朝の夢告があり、二人の男が妻子まで捨てて神明神社の前を掘り始めた。新聞記事にも掲載されて見物人が沢山押しかけ旅館も満員という話題を振りまいた。

男達が掘った穴の深さは十四メートル、横へ六メートル、さらに二メートル、横穴を四メートルまで掘ったところで美馬東警察署が危険と判断して中止を警告した。名西郡の祈祷師婆さんも反対側から宝を目当てに掘っていたが地下二メートルを掘って諦めたという。

はじめに言うてたら良かったんですが口山の白人神社でっせ。近くに五社三門(神明宮)がある宮内の白人神社ではありませんのでそこんとこヨロシク。

あ、今回大した話ではなかったですが、今日はこれくらいにしておきます。それではまた調べておきますね。(・∀・) バイバイ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんてな。うそやで。以下続きです。(=゚ω゚)ノ

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穴吹口山に座す御崎大明神は当山惣氏神なり、この傍に白人明神の社あり、往昔は瓦葺の拝殿ありしかど、細川氏没後は朽ちはてて瓦のみ社内に積み置きけるを、慶長の初、稲田主理亮が脇城に衛り居て屋宇の破壊を修補するに瓦足らず、近郷を尋ねさせしに当社にて見当りたるを取用ゐて所々を葺く、雨時馬捕与吉郎と云者に神移らせ給ひ、我は鎮西八郎為朝なり、修理亮我社をも修覆すべきにさはなくて却て瓦を押領し、不浄の所へ用る条無礼至極と塡らせ給ふ、修理亮恐入り深く懺悔し自ら社頭に行至らず、只下郎どもに任せつるは不覚申しばかりなしと詑奉り、右の罪つぐなはんがために本社拝殿等千木高く建立せり、其の時又かの与吉郎に神託ありて宣はく汝非儀を改め、早く宮居を再興し且朝暮尊敬すること満足せり、今より後汝が弓矢を守護すべし、されば十三年を経て天下又乱るべし、其の節汝天が下に名を顕はすほどのことを与へむと宣ひて神上り給ふ、此の年慶長七壬寅のとしなり、其の後修理亮厚く神威に帰依せしに果して慶長十九甲寅年大坂陣の時霊夢の御告ありて白兎に化し給ひて責口を教導し穢多ヶ崎にて高名す、十一月十九日の夜より二十日朝に至れりとそ、又当地にては其の頃当社御屋根葺替成就し、即十一月廿日吉辰にて遷宮ありしも不思議なり。(此の故に当氏子今に兎をは食はすとあり)

白人神社はその他にも神降り人が神宝の鎧と武具を装着して気を失った状態で忌部 種穂山で捕縛されたという記録も残っています。神懸かり的なものが降りやすい神域なのかもしれませんね。

さて、そろそろほんとに疲れてきたので最後のまとめに入ります。

文化九年(1812)の通夜堂再建勧進帳によれば、崇徳天皇を中に、源為朝とその父為義を配祀していた記録が残る。白人明神由来(続微古雑抄)や明治時代の白人神社由緒宝物調査書には以下の伝承が記されている。保元の乱に敗れ伊豆大島に流された源為朝は、同じく讃岐国に流された崇徳上皇を追慕して密かに讃岐国に渡り、導かれて白人明神を祀る当地に至った。仁賢天皇の時代に土地の長人たちが白髪の翁の告げで社殿を建てたのが始まりとの由来を聞いた為朝は、南西丘上の旧地から現在地への遷座を勧めた。村人たちはこれを聞き入れて移し、この時に崇徳上皇も併祀するようになったということである。先の引用にもある徳島藩家老稲田氏は当社に祈願し大坂の陣で戦功を挙げ、江戸時代には同氏が守護神として尊祟、斎田、神馬などを寄せ、社殿の修築も行い現在に至っている。

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ということで、白人明神のほんとうの元地は五社三門(神明宮)に近い宮内の白人神社。こちらを口山の中白人神社として分祀し、崇徳院も祭祀させたのが源為朝ということになりますね。(理解できたかな?)

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白人神社として一括りにされてしまっていますが、古より祭祀されていた宮内 白人神社はおそらく神代の時代に天孫降臨してきたニニギノミコ…(おっと、最後まで言いますまい。)を祀ったもの。(そして白髪の翁は猿田さんだね。)そして源為朝により崇徳院を祭祀した中白人神社。それぞれが混ざってしまっているのですね。

要は宮内の白人神社には、源為朝崇徳院は祭祀されていない。源為朝崇徳院を祭祀するのは口山の中白人御崎神社”ということなんです。

口山のある中白人神社は友内山の麓、端山に入る玄関にあたる場所。あとは源為朝を導いた麻植氏の謎を追うことです。(なかなか出てきませんが… )

それではなんやかんやで長くなってしまいました。ほんとにこのへんで終わりにしようと思います。ではまた。

(・∀・)バイバイ

山崎忌部神社はどこから分祀されたのか⁈

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忌部神社は神代に於いて石立山(剣山)に鎮祭して奥宮とし、更に衆庶の参拝の便を思って友内山に中宮を建立せるも、住民が次第に里分に移動するに及び次々と里宮を建立するに至った。従って端山の五所平は大宮司家の麻植氏が之を守護し、山崎なる天日鷲命神社は麻生氏、高越神社は早雲氏が夫々奉仕していたものである。

ちょっと前にFacebook投稿にて投稿した一説ですが実は続きがあったのです。せっかくですからブログの方ではきちんと掲載しておきますね。

忌部大神宮は三里四方の霊地を境内として造られた神社であり、麻植氏(忌部宿禰)が代々大祭主を勤め、オオヒルメ・オシホミミミコト・ニニギミコト・ヒコホホデミノミコトウガヤフキアエズノミコトの五柱の神々を祀っていたものである。

そもそも蜂須賀家が忌部氏系譜である早雲氏の建白により開始された地神塔による地鎮祭も忌部大神宮を隠匿した後ろめたさがあったからかもしれないですね。古より忌部大神宮で祭祀されていた本来の神を隠し、農業神五柱に置き換えて祭祀の浸透を図ったのではないでしょうか。

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麻植郡天日鷲命神社(山崎忌部神社)は三里四方の霊地内にあった両森大神宮から天日鷲命の分霊を勧請して創建された。

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両森大神宮は天日鷲神と津咋見神の二柱祭祀。場所は… (上の写真文を読めば解ります‼︎)まさに三里四方の霊地のど真ん中ではありませんか。

実のところ山崎忌部神社は三里四方の霊地から分祀された分社なのであります。

ということは雀獄遺跡 浮島八幡神社の元社も…(awa-otokoは山崎忌部神社と浮島八幡神社元社は天日鷲神と津咋見神:両森大神宮の二柱が別々に祭祀されたという見解も別の説と併せて考えています。)

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ふむふむ。だんだん剣山からの忌部ルートが見えてきましたね。全然勉強してない人ほど大嘗祭大嘗祭言うている状態ですが、まず今回の内容を踏まえて調査を進めないと忌部氏の本質は見極められませんよね。(特に最近ネット検索だけの知ったかがSNSに投稿するので手に負えないですわ。苦笑)

その他にもまだまだ調査の結果を書きたいことは山積みではありますが、入力にそろそろ飽きてきたのでまた今度します。ではでは。

あ、言うときますけど今回のネタはエイプリルフールネタじゃねぇっすよ。(・∀・)

大宜都比売命からの御食

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その昔、鳴門の大毛島の海岸一帯には「あしか」が生息していたという。今から三百年以上も前に阿波三代藩主である蜂須賀忠英寛永六年頃に、「あしか」と馬が交尾してこどもが生まれると水陸両用の名馬ができるという迷信から、鳴門 土佐泊浦大毛一円に限定して馬百頭を放し飼いにした。
以来明治四年頃迄馬を放し飼いを続けていたが、「あしか」と馬の恋愛関係は一度も成立せず失敗し、明治四年の廃藩置県と共に水陸両用の名馬を生産する計画は終わりを告げた。
その間にも馬一頭につき大豆何キロかの割合で藩主よりお下げ渡しがあったが上役から下役までの手を経るうちに少しずつ少なくなり、馬の口に入る大豆は僅かとなっていった。
空腹に耐えかねた馬達は食糧を求めて山野に入り込み、草や木の芽を喰い飢えを凌いでいたが、冬場には遠くに足を延ばすことにより柵を破って南の集落の野浦地区まで出没して畑作を食い荒らしはじめた。
困り果てた農民は訴願を重ね、藩もようやくその被害を認めることとなり野浦地区全体に石垣をめぐらして馬の行動範囲を狭めたが長年の月日を経て次々と壊れはじめ、畑を売り出す農民も現れたという。
今も野浦地区には「馬垣」の名残りが山裾の所々に残っている。海の「あしか」は今では近海でみることは出来ないが、明治三十五年ごろ迄は秋から冬にかけて鳴門の海に群居していたという。

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この「あしか」が生息していた大毛島。大毛島の名前の由来は「大毛は大宜都比売命の名のおこれる所なるべし。」と伝承される大宜都比売命の泊であった場所なのです。

さぁ本題に移る前に思い出してみて下さい。板野町鎮座 気比神社の投稿の中での一節を引用しますと…

その「つぬが(板野町鶴ヶ須)に坐す「伊奢沙和気大神之命」は建内宿禰の夢枕に立ち、「わたしの名前をその御子の名前と変えたい。」とおっしゃった。
それを聞いた建内宿禰も「畏れ多いことです。仰せの通りに名前を交換しましょう。」と承諾した。
すると神は「明朝に浜に出よ。名を交換した「しるし」を与える」と伝えた。
そこで翌日、御子が浜に行くと、鼻の傷ついた海豚(あしか?、アザラシ?、イルカ?)が現れた。
それを見た御子が「我に御食(みけ)を下さった」と言い、そのことから神を「御食津大神(みけつおおかみ)と名付けた。

大宜都比売命の名の起これる大毛島より、「御食(みけ)」を賜わることになった。

すなわち大宜都比売命の遣わした御食:「あしか」が現れたということですかね。(これは神代の時代から応神天皇までは海獣を御食としていたということですよね?間違えてないよね?笑)

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大毛海岸のすぐ目と鼻の先 淡路国は御食国とされ、旬料・節料として「雑魚」を贄として納めることが延喜式に記載されています。(雑魚って?何を指しているの?)

御食国 - Wikipedia

はい。当時の水位を再現したフルードマップを確認下さい。

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なんということでしょう。

「あしか」が生息していた大毛島・ウチノウミから現在の吉野川流域に北は板野町、南は石井町まで海水が入り込んでいるではありませんか。

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以上の地理条件から大毛島に生息していた「あしか」が現在の板野町気比神社付近まで入り込むことは多くあったはず⁈ なのですが… 

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今回は大宜都比売命の御名から出た鳴門 大毛島の伝承と異彩を放つ気比神社の伝承を融合させてみましたが、、、ちょっと強引な展開だったかな。でも昔から大毛島に「あしか」が生息していたのは本当のようですよ。(ノ≧ڡ≦)てへぺろ

連れて来られた事代主神、そして謎の鳥たち。

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武布津神が出雲を平定して天照大神に奉告するため事代主神を道づれにして阿波へ来た。一行は讃岐の志度に上陸して日開谷を過ぎて伊笠山麓付近に来た。その時忌部族は、高天原族等の不意の浸入を咎めてこぜりあいがあったが、やがて忌部族長 天日鷲命は武布津神のために休憩所を今の香美に建て、事代主神を自分の妹 阿波(あわめ)の館に迎えた。

f:id:awa-otoko:20180312114511j:image(上喜来 蛭子にあるえべっさんの像)

以前にさらっと流して紹介したのですが、今になってちょっとawa-otokoの中で再燃しているのが上の引用でありまして、、、。場所は市場町周辺。そしてそれに関わる⁈ 新しい情報も入手しましたのでご紹介したいと思います。

冒頭の引用より武布都神が天日鷲神に御目通りが叶うまで留まった場所とされる伊笠山。その後に休憩所が設けられたという香美(かみ:神?)にも武布都神が祭祀されています。

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f:id:awa-otoko:20180311214110j:image(香美 武布都神社)

また、武布都神に連れてこられた事代主神は伊笠山南麓の地である上喜来蛭子の事代主神社。そして伊月(伊着き: 伊笠山から着いたの意味?:本来は斎(いつき))にも事代主神社がございます。

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f:id:awa-otoko:20180311214322j:image(蛭子 事代主神社)

f:id:awa-otoko:20180312061236j:image(いつも怪しいと感じる皇后社)

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f:id:awa-otoko:20180311213859j:image(伊月 事代主神社)

そうなんです。きちんと伝承に応じた場所にそれぞれ武布都神と事代主神が今も祭祀されているのですよ。ちなみに忌部族頭領 天日鷲命は浮島八幡宮、妹の阿波咩(天津羽羽神)は八条神社で祭祀されていたのは皆様ご存知の通りです。f:id:awa-otoko:20180311215041j:image

ちょっと話は逸れますが↑↑↑ こちらの古文書↑↑↑ では、秘羽目という御名の中に積羽八重事代主の「羽」が入っているから秘羽目神は事代主神と同神など結構乱暴な考察で書かれております。(これは無視するとして。笑w)文末には伊月の事代主神、粟嶋の天津羽羽神を挙げて阿波嶋村これ阿波国の名所なれば必ず二神は伊月村、粟嶋村の二村ならん。と締めております。こちらの内容からも冒頭の伝承内容や神々の関係性が現在と同じ内容で考えられていたということがおわかりいただけるのではないでしょうか。(ちなawa-otokoは秘羽目神は天日鷲だと思ってますが… )

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さて、かなりマニアックな伝承と奇妙な一致が確認できる今回の内容なのですが、いろいろ考えてみますと事代主神はどこの出雲から連れて来られたのでしょうか。またこの伝承にある事代主神や、その他の関わりある神々達は(他の阿波国伝承の神話などから考えて)いったい何者であったのかということを後々説明していきたいと思います。今回詳しく書こうと思いましたが、まだまだ調査不足の部分もありーの、久しぶりの投稿で力尽きーの、な感じなのでまたの機会にしたいと思います。(引っ張りーの。笑ww)

 

ちょっと内容的に物足りないので最後に…

少し目新しい情報をリークしましょうかね。

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浮島八幡神社 祭神:天夷鳥命またの御名 天稚彦天若日子: あめのわかひこ)。鴨大御神(あじすきたかひこね)と同神ではないかと云われている神ですね。

カモで考えれば何故か阿波町にカモがあるんですよ。

f:id:awa-otoko:20180312123628j:image阿波町新開鎮座 賀茂神社

f:id:awa-otoko:20180312123648j:image阿波町伊勢鎮座 古賀茂神社

んーーー、阿波町市場町で、カモ繋がりあるかも⁈ あと、浮島八幡宮は川島町二つ森の上にある雀獄遺跡からの移遷ですからこちらも鳥に関連して調査していけば色々出てくるかもしれませんね。しかしほんとに鳥ばっかりですわー。

謎・謎・謎ですね。( ・∇・) ニヤリ