awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

高越寺の歴代住職達

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さて、今回は高越山の高越神社とともに鎮座する高越寺の歴代住職の略歴についてちょっとずつですが触れたいと思います。但し自分用の備忘録としての記録なので気の利いたことは書いてないので悪しからず。(情報がない住職も含まれるけど文句は無しでお願いします。)(´Д` ) あぅあぅぁー。

 

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第一世 役小角
役小角は七世紀後半から八世紀頃の呪術宗教者。葛城山に住したが、その弟子韓国連広足(からくにのむらじひろたり)に讒(ざん)せられ、文武三年(699)に伊豆に配流された。その後、鬼神を使役し葛城山と金峯山に橋を架けたなどの伝説が作られている。現在でも高越寺の本尊は蔵王権現である。蔵王権現の像は、頭に三鈷をいただき、三眼・青黒色の忿怒像で、左手は劔印で腰にあて、右手を空中にあげた形である。(awa-otoko的には蔵王権現は石立山(剣山のことな。)の不動明王スサノオ)をはじめとした古の神々を集合体として神つ山(高越山)に祭祀したのではないかと考えています。)

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第二世 真暁
生没年不詳。「当山先師過去名簿」には十禅師(宮中の内道場に奉仕した十人の僧)とあり、これより弘法大師の弟子である真暁のことであるとされる。高越寺蔵「御遺告」には承和ニ年(835)三月十五日入唐求法沙門空海上件を遺告す。承る法師等の中に真暁が含まれている。


第三世 如願
生没年不詳。情報なし。


第四世 慶瞬
高越寺蔵大般若経第九巻、第三○四巻の破損を明徳三年(1392)に慶瞬が修造した記事が残る。中ノ郷にある板碑に「権大僧都 慶瞬」との刻付がある。


第五世 乗澄
中ノ郷(中禅寺)の石碑に第五代 乗澄の名あり。中ノ郷中禅寺付近には大瀧さんとお越っあんが喧嘩して、大瀧さんから投げた石があるが、これは修験者同士の争いを物語っていると思われる。(大瀧山は阿波真言修験の拠点で吉野川を挟んだ忌部修験の拠点であった高越山と対峙している。)


第六世 清誉
生没年不詳。情報なし。


第七世 密厳
生没年不詳。情報なし。


第八世 清円
生没年不詳。穀谷に墓碑あり。


第九世 一常
蜂須賀家政の帰依を受けて高越寺を再興す。和泉国槙尾山寺の僧。中興の祖。中ノ郷 板碑に「中興開山市乗僧正」の記入あり。


第十世 宥範
生没年不詳。情報なし。

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第十一世 宥専
〜正保三年(1646)二月十七日没
寛永十七年(1640)高越権現の神楽銭問題で川田八幡神社 早雲神主との争いあり。


第十二世 宥盛
〜万治元年(1658)六月十日没
実の中興の祖。高越寺と川田八幡神社の争いが再び起こり、裁判では早雲神主が高越大権現から除外されたことになっている。高越寺と川田八幡神社がきびしく対立した裏には、高越寺が神社を支配する別当職を所持していたためであろうと推測されている。実の中興の祖といわれるのは川田八幡神社との争いを有利にし、大坊の土地等を譲り受け寺勢の伸張に尽力したことによる。

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第十三世 宥尊
〜寛文六年(1666)四月四日没
死没の前年に「摩尼珠山高越寺私記」で高越寺の歴史を著す。


第十四世 宥保
正保四年(1647)〜天和三年(1683)
此師始めて生年あり。短命であった。
川田八幡神社別当は高越寺であるにもかかわらず、日假遷宮を神主が行なったため高越寺が藩に不都合を訴え、神主・庄屋が高越寺に詫びたという記録が残っている。

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第十五世 宥海
〜元禄八年(1695)四月二十一日没
此師の時、高越寺火災あり。元禄三年(1690)元旦の晩四ツ時に付火にて悉く炎焼… と住友家記録で付火を報じている。


第十六世 宥証
享保十五年(1730)六月十四日没
宥証師は徳島城下勢見の観音寺の僧、龍厳の弟子。「阿州摩尼珠山高越寺記」を著し、諸堂の再建と共に高越寺の尊厳を其歴史によって示した。徳島城下徳島庵で病死。


第十七世 保道
宝暦四年(1754)三月十二日没
宥証上人は遺言で末弟子海寛を推したが他弟子達は正戒を希望した。藩は容れるところにならず高越寺は無住職となったが。一ケ年後に勢見山観音寺より保道が第十七世として着任した。
無住職時に高越寺を守ったのは両川田村の民であり、高越山上へ十人、山下へ十人百姓が留守をし、責任者として五人組が一人宛あたり、高越寺へは明王院住職が神仏に勤めた。


第十八世 快受
〜明和六年(1769)八月十四日没
此師の時、高越寺本尊を勢見山観音寺にて出開張を行なった。また川田八幡神社にあった大般若経六百巻の欠巻を庄屋の責任で補充し、これを高越寺へ返し、早雲神主による川田八幡神社祭礼には高越寺を支配せず、早雲神主の自由に任せす契約が成立した。


第十九世 快広
〜寛政元年(1789)六月四日没
第十八世 快受上人が明和六年(1769)に没しているにより、此和尚は二十年の在位と思われる。事績不詳。

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第二十世 快任
宝暦九年(1759)〜文政二年(1819)五月七日没
快任師は第十九世 快広の弟弟子。この師の時、旱多く雨乞い祈祷を執り行った。「日中勤めに神前に相向い候処、神前の下、長さ四尺ばかりの金色の蛇出現し、すなわち龍王の垂跡と存じ知り、(略)其夜七つ時より大雨降り終日止まず、感涙肝に銘じ… 」雨乞い祈祷は大成功を収めたようである。


第二十一世 快純
〜天保七年(1836)十月二十五日没
此師、業績不詳。


第二十二世 快典
〜文政十年(1827)八月十三日没
此師の業績は不明であったが、第二十三世宥光師の時代の記録により判明。文政十一年高越寺が川田八幡宮別当職を指引くことに決定したが、約束書取りかわさぬ内に快典は死没。


第二十三世 宥光
〜天保七年(1836)七月二日没
美馬郡脇町大滝寺出身、同町最明寺へ転住し五年勤めたのちに文政十年に高越寺へ赴任。穀谷の里寺を伊澤村の願成寺に売却し山上で住した。

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第二十四世 宥真
文化四年(1807)〜明治六年(1873)六月没
此度御修復之儀御建立所ニ被仰付候運御代々様御判物之写、同御寄附の品々、其他何不寄御由緒、寺領下置候運、寺旧記写、伝来之品々書上帳(一冊の書名)、嘉永二酉二月ヨリ郡役一条諸被仰付御書写等の高越寺の歴史を残す。


第二十五世 良岩
〜明治二年(1869)二月二日没
阿波郡秋月村光福寺良融三従弟。安政六年(1859)十二月に高越寺に赴任。堂宇建立のため寄付を藩内全郡に及ぼす。高越寺記録を著す。


第二十六世 龍快
文政五年(1822)〜明治二年(1869)四月十日没
覚書を残す。諸堂再建のため所轄の山林から用材伐採の願出。建築費捻出のため操人形芝居実施の願出。


第二十七世 快剛
生没年不詳。美馬郡木屋平村に墓あり。
明治元年(1868)神仏分離令が出て、両部神道を奉じる高越寺は、山林没収・五十石の禄返上、神社と寺院の分離という大変動を受けた。先代が明治二年(1869)四月に没したので快剛師が全てを背負うことになった。神仏取分け(神仏分離令)により蔵王権現を高越寺へ引き、天日鷲命の社は早雲神主に渡した。五十石を徳島藩に返上し、十石を交付された。快剛師はわずかニカ年の短い任期であった。


第二十八世 良俊
嘉永四年(1851)〜明治十四年(1907)二月十六日没
神仏分離後の高越寺を新しい方向へ出発させた。穀谷にあった里寺を願成寺に売却し、其の跡地に堂を建てて観音菩薩を安置。登拝できぬ老人婦女子のためを図った。


第二十九世 良範
明治二十年(1887)〜昭和十九年(1944)七月十三日没
千住良俊が山門の建立をなした後を受け、鐘楼の新築をなした。

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第三十世 智純
明治三十四(1901)十二月九日生〜昭和五十七年(1982)七月十四日没
昭和十四年(1939)一月十八日高越寺に火災が起こる。川田町警防団が一里十八町の急坂を駆け上ったが寺の一反半(15アール)が焼け落ちていた。智純師は本堂、客殿、庫𥚃、休憩所、修行大師像、錫杖塔、心経塔を建造した。

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第三十一世 茂昭
昭和十五年(1940)二月二十日〜平成二年(1990)一月十七日没
先代智純師と共に高越寺の復興に努力したが平成二年五十歳で逝去された。護摩堂、休憩所の改築、駐車場の新設、給水施設の設置をされた。また書籍「高越山」を編集した。


第三十二世 茂洋
昭和十五年(1970)十二月二十一日〜平成二十六年(2014)十二月六日没
茂洋師の没については記憶に新しいところであり、関係者の気持ちを汲んでここでの記載は伏せさせていただきます。

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第三十三世 浩円
情報なし(奥の院 蔵王権現の鳥居扁額を書いている人?だよね。たぶん。)


このように高越寺・高越神社は、役小角が忌部大神宮の奥宮である石立山(剣山)より古の神々を勧請して開いた「神つ山(こうつのやま)」であり、約千三百年以上より脈々と続いている聖跡なのであります。三十三世に渡り幾多の困難を乗り越えながら伝わっている聖跡 高越山。阿波では是非一度は参拝するべき場所のひとつですよ。興味ある方は是非どうぞ。(・∀・)