木屋平の忌部氏と平家(木屋平 三木家、森遠 正八幡宮)
阿波忌部氏は太古から天皇が即位のときは麻から麁服(あらたえ)を織り、践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)に貢進してきました。麁服の貢進には阿波忌部の直系である三木家が関わり、御衣御殿人(みぞみあらかんど)として朝廷と深い関係を保ってきたのであります。
三木家の人々は御衣御殿人の役割を果たし続け、南北朝動乱期から江戸期まで中断していた麁服の貢進が大正時代に復活。昭和、平成と受け継がれて現在に至り、平成の践祚大嘗祭での貢進では木屋平で栽培、調製された麻から山崎忌部神社の織殿で麁服が織られ、周辺市町村の関係者をあげて貢進に当たってきました。
木屋平の地名は小屋平氏が拠った森遠城付近から生まれた地名であり、かつて地元では「安徳天皇の小屋の内裏」が森遠城の位置に存在したこと、平は小屋平氏が平家であり、小屋に続けて平を加えたものであると伝承されてきました。
その後、山深い森遠に落ち延び、その地に行在所を建て「小屋の内裏」と呼んだのであります。
その後も安徳天皇は平國盛等祖谷山平氏に迎えられて、祖谷へ行幸され、平知経は、この「小屋の内裏」を城塞のように築きなおし、名を「森遠城」と改め、自分の姓も平氏の平と小屋の内裏の小屋を合わせて、「小屋平(のちに木屋平)」としました。
平安初期に三木山の忌部の長者・三木氏の次男が、5人の者を従えて当地に入り、5人は下名・弓道・森遠・谷口・川上の5ヶ名に住し、三木氏の次男は谷口に居を構えて大浦氏を名乗って開発を行いました。
森遠は緩やかな傾斜地や窪地が広がり、絶好の日照条件と数ヶ所から清水がわき、小谷も流れて入植者なら真っ先に居住する好条件の場所であり、鎌倉時代に小屋平氏はこの地を入手して本拠地として勢力を伸ばし、やがて衰退した大浦氏に代わって大浦名を支配下に置くこととなったのです。
森遠城は本丸・外櫓・馬場などを含めると約一町五反の広さがあり、「阿波志」には「八幡祠平村森遠名に在り、俗に言う土御門天皇を祀ると地丘陵にあり、祠中偃月刀及び古冑を蔵す、阿部宗任持つ所」と述べています。
八幡宮には同家の祖霊も合祀して霊廟とし、本丸跡約六反歩を森遠在へ解放。現在も境内には空掘・武者走り・古井戸など城内の遺構が完全なままで残っており、堀の内側は森となって広大な境内が広がります。
森遠 正八幡宮に赴けば往時の情景を偲ぶことができますよ。
木屋平編、さらに続く!かも…