awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

粟国造一族所縁の神社を再興した阿波国絶大なる領主

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慶長の頃、ポルトガル宣教師ルイス・フロイスが著した「フロイス日本史」において「阿波国絶大なる領主」「偉大にして強大な武士」と紹介された阿波の武将が存在した。

戦国時代に阿波の軍事政治に大きな活躍をした武将、篠原右京之進長房(幼名は孫四郎、晩年紫雲)であります。

f:id:awa-otoko:20160902223735j:image(篠原長房が築城した川島城)


長房は三好長慶の弟・三好実休の重臣であり、実休討死の後は遺児・三好長治を補佐し阿波において三好家中をまとめあげました。才知優公平無私、薬師という智者を崇敬し諸事相談をなし、式目を以って訴訟を分ち、三好氏の分國法である新加制式二十二条の編纂にあたるなど能吏として知られます。このように長房の権威や権力は、三好三人衆をも凌駕し、彼らを動かすほどの立場にあったと伝えられております。

長房の評価は「三好家中の中でもっとも堅実で軍事・政治の両面に通じていた。このような非凡な才能からときにそれが諸臣たちのあいだで妬みをうけるほどっあった。」とあります。
妬みを受けるほどの才能はどこで培われたのか… 篠原氏の出自は多賀神宮神官家の生まれであり橘氏の系譜であったことからかもしれません。

篠原氏は四字の姓(源平藤橘)四氏の橘が親で近江の国篠原の里、多賀神宮宮司の二男に生れ候、三好喜運に仕え、その当時は宗半と申して荷持ちなどして阿波へ下り候時、肩にコブが高くてかたひらなどめす時は見苦しく候、宗半は僅かの奉公銀に召されつれ共、公事沙汰をきき候ては直ちに栽決し、両者は納得して不平なし、才知噸みに優れたり依って知行を一かど被遣候いて、特務を被命候…(昔阿波物語より)

篠原氏は橘姓で、橘諸兄から八代目橘好古の子孝政が始親とされています。

神官家の出自という堅実且つ公平な性格が新加制式二十二条にも伺うことができます。

新加制式二十二条

1、神社を崇め寺塔を敬うべし
2、固く賄賂を禁止すること
3、旧境を改め相論を致すこと
4、仲間、狼籍科のこと
5、三度召文を給うと雖も参上せざる科のこと
6、犯論の時は証人を出すこと
7、道理なしと雖も指損ジナキ故謀訴を企てる輩贖者をかけらるべきこと
8、強窮二盗の罪科並に与頭同類のこと
9、失せ物見出すに随い本人に返すこと
10、罪人と号し事由を究めずして殺害せしむること
11、被官人罪科主人に懸るか否かのこと
12、譜代相伝えの被官人のこと
13、一季奉行のこと
14、地頭の為に百姓の田畠等押え置くこと
15、地頭に対し事由を遂げず猥りに名主変更の事
16、百姓恒例の年貢に増加せしむること
17、所領を子孫に譲与するのこと
18、父祖の譲状たりと雖も事に依り容赦あるべきこと
19、御恩を以て質物に入ること
20、党類を組んで互に盟誓せしむること
21、科人と号し追い来るとき他方より出合い殺害せしむること
22、被官人攻撃に及び其の科主人にかかるか否かのこと

裁判は長房の特意とする処であり、民の年山事分国の争い家臣所領の争事など諸事長房が式目を以て訴訟に公平を期し、私事なく諸人不羨、阿波、讃岐、淡路三国よく治めたとのことであります。

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さて、篠原長房を語るにあたり避けて通れない戦いがございます。長房の最後を決めた上桜城の戦いであります。

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f:id:awa-otoko:20160902224240j:image(上桜城址

上桜城の戦いと篠原氏滅亡

ここに小少将という人物がいる。『三好記』によると小少将は絶世の美女と評されている。小少将は細川持隆の側室であったが、持隆の生存時より三好実休と不倫の関係にあり、後に実休の妻となり三好長治、十河存保の2子をもうけた。長房が阿波に帰国した前後より、小少将は三好氏を支えていた篠原自遁と相通じあう仲となり、長房を疎んじるようになった。政務を正し小少将の不倫を諌めたため怒りをかったと言われている。長房はこのような状況にうんざりしたのか、上桜城に引き籠るようになった。しかしこの事が逆に裏切り、反撃にでると思われたのか、長治は長房討伐の兵をあげることとなる。

元亀4年(1573年)5月、長房は長治・真之により居城の上桜城を攻撃され、抗戦の後7月に自害した(上桜城の戦い)。 篠原実長(自遁)の讒言のためという。ただし、同年4月に十河存保が堺で織田信長と接触しており、柴田勝家にあてて、「十河より河内国若江城攻撃の後援要請を受けたことを通知、河内国若江城を即時攻略すれば十河に三好義継知行分の河内半国と摂津国欠郡を約束し、もし一度の攻撃で陥落しなくても攻略に成功すれば河内半国を与えると約したので、急ぎ出陣するように」という信長の指示が出されている。これと連動して、対織田戦を主導してきた長房が阿波三好家から排除されたとの見方もある。(但し和泉岸和田城主・松浦氏の松浦孫八郎は十河一存の実子であり、先の書状の十河某は、十河存保とは別の畿内勢力の可能性もある)(Wikipediaより)

はい。 あまりに篠原自遁・小少将が卑怯で、三好長治がダメダメ過ぎ。これにより阿波国は破滅の道を進むことに。。。

三好家家臣の中でもっとも堅実で、信頼を置くべき篠原紫雲(長房)を討ったことにより、赤沢宗伝を始めとする三好氏家臣達は三好長治に愛想を尽かしました。これより阿波国内の情勢は混乱を極めたことは言うまでもありません。

このお国騒動に乗じて長宗我部元親阿波国の西部、南部より進入。阿波国内に破壊のかぎりをつくしたのは皆の知るところであります。

篠原長房こと紫雲が讒言で討たれなければ三好長治を巧みに補佐し、安定した阿波国になっていたのかも知れませんね。

 

さて、今回の本題はここから。

篠原長房(紫雲)を語るにあたり、余りに知らない人が多いことで前置きが長くなってしまいました。。。やっと概要を入力したので、awa-otoko目線から進めさせて頂きます。

 

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実は… 鎌倉時代の初期に小笠原氏、鎌倉時代末期に田口氏(一宮氏)に勧請されたと伝わる神山 宇佐八幡神社。その後荒廃していた社殿を永正四年(1507)に再興したのは今回の主役である篠原長房なのであります。

篠原長房が隠居した上桜城は長房が自らの戦の経験をもとに造成された出城であり、戦に有利になる立地条件を大前提に造成されたのもさることながら、峯つづきに浮島八幡神社の元社が存在した雀獄、麓全面に善入寺島などが存在します。忌部祭祀が主である環境であることは言うまでもありません。

にもかかわらず、、、忌部神には目もくれず粟国造一族縁故の宇佐八幡神社を再興した経緯から、正史には出てきていない大きな氏族間の繋がりを感じずにはいられません。

やはり、鎌倉、南北朝室町時代にかけて阿波国内で氏族間で大きな動き(入れ替わり)があったことは確実なようです。

その他にも焼山寺から大粟山領を跨ぐ道(遍路ころがし)を作った空海の動向も見逃せません。

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どうやら神代からの古跡の実証は記録だけで簡単に証明できるものではなく、各時代に隠されたパズルのピースを探し一個ずつはめ込まないと全貌は明らかにならないようです。

今回の篠原長房は橘氏とのことですが、阿波には小笠原氏(源氏)系譜の篠原氏も存在することから繋がりはあるのかも知れません。

さて、そろそろ次は本命中の本命、◯◯氏にクローズアップ!?かな。(笑)