木地師と修験者の聖地
一宇村の中心である古見から片川谷沿いに林道を進めば木地師の集落 木地屋に行き着く。海抜800から1000㍍の急斜面を耕す住民、その先祖は昔盆や椀の木器をつくる木地師であった。半田漆器の材料を製造していたが、大正時代の末に半田塗りがすがたを消すと和傘や轆轤つくり、農業に転向していった。それでも時代の移り変わりには逆らえず、出稼ぎや集落を出ていく者は少なくなかった。
木地師の祖先は約千年前の文徳天皇の第一皇子である惟喬親王と言い伝えられている。滋賀県愛知川の上流小椋谷で仏法修行の傍、人々に轆轤の使用法を教え、技術を習得した者は全国の関所の自由通行と、山の七合目以上の自由伐採の特権を与えられて各地に散らばりったという。阿波の木地屋に居住していた住民の殆どは小椋姓であったという。
さて、木地屋に行き着くとこんな山深い場所にこんなに手入れされた神社があるのかと驚きます。石堂神社です。
石堂神社は木地屋から白滝山の稜線を伝いながら一時間程歩けば到達する石堂山を神を祀ったもので、石堂山を崇める者達の入山口となっています。昔から休憩場所や避難場所などに利用されていたのではないでしょうか。
(御塔石)
石堂山は修験者達が度々訪れて祭祀したと伝わる御塔石が有名。そして大工小屋石と呼ばれる内部が石室になった大岩(磐座)もあります。
(大工小屋石)
(内部)
半田町 石堂神社
ところで半田町にも石堂神社があるのですが、半田町鎮座の石堂神社は木地屋に鎮座する石堂神社の祭祀(神)を、後世に平野に近い場所へと降ろしたものだと考えています。後世といっても半田町 石堂神社は天神七代・地神七代を祭神とし、由緒は千年を遡るもと伝承されているので、これ以上の深い歴史がある石堂山、木地屋の石堂神社はとても興味深い研究材料なのです。
(半田町 石堂神社)
木地師の里に鎮座する石堂神社は木地屋という地名から木地師所縁の場であり、そして修験道の信仰の地でもあることは前に記しました。普通に考えても木地師と修験者という歩き筋に共通する場所ということが分かります。
技術や特権を持ち一定の場所で居住せず、各地の山々を転々としていた人達は、忍者・隠密のような諜報活動を担っていたのではないでしょうか。
吉野朝時代には南朝・吉野との連絡を密使が修験者の姿に変え、髻(もとどり)に密書を隠し運んだ「髻の綸旨」は有名ですが当地も南朝方山岳武士の密使が行き来した場所であるのはまず間違いありません。
(高千穂神社)
当地のこうした文化や祭祀形態が半田町の石堂神社まで降り、高千穂神社や参道入口の日光神社という天照大御神を連想させるものに変化していったと考えれば、本家 石堂山 石堂神社はとんでもない面白いルーツがあったのではないかと考えられるのです。
当地は木地師、修験者、吉野朝時代に活躍した阿波山岳武士の伝承しか残されていませんが、周囲の峰々は劔山に繋がり、古代の人々が何らの影響を与えた場所であることは間違いありません。また登っていろいろ調べてみたい思わせられる石堂山と石堂神社でした。