awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

古代の祭祀場、天桁山(あめのけたやま)

 

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東宮山と峯続きにある山、「天行山(あまぎょうさん)」。阿波古代史の入門書ともいえる書籍「道は阿波より始まる(その三)」には、以下のように記されています。

蜂須賀治世時代の諸文献では「天行山」ではなく「天桁山」「桁村」が地名として使われている所をみると、当然「天桁山(アメノケタヤマ)」が正しい地名と思われる。
東宮山」と「天桁山」と連なるこの峯が正に絵に描いたような建物の大屋根そっくりの形をしている。木屋平の地名もこれから起こったのであろう。また木屋平は「天小屋根命」「天日鷲命」の居住地であった。神代の重要な儀式は天空を支える天の元山の中心地「天桁山」で行われてきたのである。

f:id:awa-otoko:20160806230449j:image(左端が東宮山、右端が天桁山)

「道は阿波より始まる」の内容については興味深いところが盛りだくさんなのですが、個人的には「?!…」という部分が多く感じるところもあって最近は引用を控えていました。が、、、今回はネタ的にリンクして内容も興味があったので久しぶりに掲載させて貰いました。

という訳でさっさと話を進めますねw

桁(けた)

桁とは、柱の上に、棟木と平行方向に横に渡して、
建物の上からの荷重を支える部材のこと。

以上のことから「天桁山」とは天空を支える屋根の部分を表しております。また山の姿を表しただけではなく、当山にて政(まつりごと)や祭祀を行っていたことから、このような名前を付けたのかもしえませんね。

引用文中にある「天小屋根命」については、木屋平(こやだいら)の地名との関連性から引用した可能性が含まれることと、個人的には「天小屋根命藤原氏の捏造と考えている節もあって存在自体に違和感を感じているので今回は触れません。しかし、天日鷲命」の居住地という内容については「あるかもしれない」と思っています。
その理由としては、東宮山〜天桁山の北側と西側は旧麻植郡の領域であり、忌部氏の伝承が色濃く残されているから。そして忌部氏の末裔である三木家住宅から見えるこの特徴ある天を支える大屋根こと天桁山の姿を天日鷲命が確認したとすれば、何らかの興味を示さない訳がないのです。(たぶんw)

 

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という訳で今回はこれを確認するために「天桁山」に登り、山中をくまなく自分の目で見てきました。

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山頂付近には磐座と思われるたくさんの巨石と立石が存在し、谷もたくさんあり水が流れている。極めつけは天桁山自体が巨大な岩の塊であることから雨露をしのげる窟が至る場所にあります。この条件より天桁山の山頂付近については、古代人が生活を営んだ古代遺跡である可能性が高いのではないかと考えました。(専門家ではないので断言はできません… 逃w)

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という訳でこの「天桁山」、古代遺跡などとは全く云われてもいませんし、大々的に検証されているわけでもありません。しかし!!地元ではとても面白い伝承が残されているのであります・

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木屋平村大北、天行院大師庵の手前、南三百米の参道の上に巨大な金剛石がある。此処から真下に向けて、コリトリ川まで六十度に近い急斜面に有名な一夜建立の石段がある。
段の数四八八段。幅三米、長さ百八十米。使用してある石の数一、二八八個という。
このおびただしい量の石材を使った大工事を進めるに当たっては、先ず大木を切り払って株や根っこを取り除き、岩を砕いて整地しなければならない。しかも大量の石材を所々八方から運んで来なければならないし、現場は六十度に近い城壁のような急坂である。この難工事は、百人いても一カ月はかかったであろう。不思議なことに石段の建設はいつの年代に、誰が造ったのか見た者も聞いた者もなく、全く謎とされている。
大昔のこと、大北集落の人達がこの石段を発見した時、近郷近在ではこの工事に加わった者はなく、話に聞いている者も居なかった。それよりのち、誰言うとなくこの石段を「天行山の一夜建立の石段」と呼ぶようになった。
この石段は、現在は利用されていないが、昭和の初めごろは、まだ参拝者が登っていた。また、コリトリ川とは、小さい谷を言い、日照り続きの時には水が枯れて流れていない。明治のころには、この谷べりに通夜堂があって、コリトリ川の水で体を清めて一夜建立の石段を登り、大師様を参拝していた。(木屋平の昔話より)

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今まで聖域と呼ばれる阿波の山に入りましたが、これ程立派で素晴らしい石段は見たことがありません。そして引用した文中にもあるように、城壁のような急坂に長い距離、大規模な工事が必要なことは現物を確認すれば尚更想像に難しくありません。

 

確認したところでは江戸時代あたりの仕事内容ではなく、さらに古い時代に造られたと思われる石段と考えられます。中世に造られたとしても古代遺跡跡を改造して城として使用したのではないでしょうか。(東宮山と峯続きだし。)例えば敵が攻めて来た際に攻撃し易く、攻撃した際にはダメージが大きい、攻める側からしたら突破口を見出せない急斜面で足場の悪い条件を敢えて造ったのではないでしょうか。そこまで手間隙かけて造設したのは、特に重要なエリアが存在したということでしょう。
また、コリトリ川が設けられていたということは、特に神威が強い場所であったことが窺え、古代では出入りする人間が限定された祭祀場であったと推測できる場所なのです。(城とは白に繋がり、白は祭祀場を指します。古代の祭祀場跡に城を造設した多い。)

 

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こちらついては空海による伝説が主になっており、剣山系の山々を巡回した空海が、自らの道場を作る目的で入山した可能性はとても高いです。現に天桁山(天行山)は、焼山寺奥の院に設定されているからです。(焼山寺は大粟族を、この天桁山は忌部族に関連する何かの目的で寺を創設していたとしたら… )


現状、古代遺跡についても空海の目的についても断言できるものはありませんが、阿波における「天桁山」の存在は、古代にとても重要とされた場所には間違いありません。

 

剣山はスサノオ信仰が不動明王に置き換えられ、忌部祭祀色が濃くなったもの。 

この天桁山は、天日鷲命が剣山信仰になぞらえられていた場所であった。後世に空海伝説に置き換えられたため伝承が途絶えてしまったのではないでしょうか。時として空海伝説が本来の伝承を覆い隠してしまっている事例は多々ある。)

 

そもそも、一夜建立の石段は「建設はいつの年代に、誰が造ったのか見た者も聞いた者もなく、全く謎とされている。」とあるように全てが謎なのです。名西・旧麻植・美馬をまたぐこのエリアは、阿波古代史を追うことではとても重要。ということで今後もこの天桁山については調査を継続して行きたいと考えています。